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三国志の袁紹は配下の田豊や沮授の進言を聞き入れていたら、違った結果になってい...

san********さん

2019/10/1617:06:19

三国志の袁紹は配下の田豊や沮授の進言を聞き入れていたら、違った結果になっていたと思いますか?

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glo********さん

2019/10/1810:08:00

袁紹の配下は三派閥に別れていました。

・南陽派
旗揚げ前から袁紹と付き合っていた派閥。許攸、逢紀など
・予州派
旗揚げ時に袁紹の元に集まった派閥。郭図、淳于瓊など
・冀州派
袁紹が冀州を支配して以降に仕えた派閥。田豊、沮授、張郃、審配など

このうち短期決戦を主張したのは主に南陽派と予州派で、長期持久戦を唱えたのは主に冀州派でした。
(なお冀州派の審配も短期決戦を唱えており、決して各派閥が一枚岩だったわけでもありません)
推測ですが南陽派や予州派は袁紹がまだ一派閥に過ぎない段階から仕えているわけで、冀州を支配して一大勢力になってから仕えた冀州派を「新参者のくせに重用されやがって」と思っていたのかもしれません。

この後も三派はいろいろと足の引っ張り合いや讒言を繰り返し、袁紹はそれを抑える事が出来ませんでした。
袁紹も一大勢力を築き大勢の人材を引き入れているわけですから、決して人間的魅力に欠けていたとは思いませんが、やはりこれは重大な欠点でしょう。

長期持久戦になった場合、官渡の戦いでの大敗は無いわけですから当然、曹操陣営に匹敵する大勢力を維持していた筈です。
しかし上述の派閥抗争を抑えられないなると、袁紹陣営の行動が一貫したものになるかどうかは疑問で最終的には史実通り袁紹は敗れたのではないでしょうか。

つまり短期的な結果は大きく違うが、長期的に見れば似たような結末を迎える事になった可能性が高いと思います。

  • 質問者

    san********さん

    2019/10/1811:47:44

    曹操が官渡で敗れた場合は元から劣勢だったわけですから、
    そのまま消えていったりしませんか?
    曹操自身も聞き入れてたら危なかった的な事を言ってたと思います。

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te9********さん

2019/10/1821:32:35

官渡の推移を整理します。

・沮授の権限を減らす→権限の分散は
保守的思考からは当然ですが
それはやはり曹操を撃破してから
考えるべきでした。

・田豊の意見を退けて劉備が敗れてから
短期決戦戦略を採用
(劉備がもっと頑張ることを考えてたのでしょうけど)
→将軍を失いながらも前線を
押し上げることには成功。
しかし官渡で止まり結果持久戦になる。

沮授は南下途中でも兵糧の優位
から持久戦を主張

・曹操の背後から劉備をつかせる作戦は
良かったと思います。
→汝南などでの反乱に呼応した形です。
もしかしたら前線が下がって来たから
反乱したのやも

・兵站死守と曹操攻撃に兵を分散。
→優位な立場からやった行動でしょうけど
懲罰的な人事で寝返りもあり大失敗


優位な立場であるがゆえにいろんな可能性に対応できるよう無難な対応を取ってしまいがちなんですけれども曹操相手にはそれは通用しなかった、ということだと思います。

無難な対応なりに優位には立ち続けたんですけど、やっぱり最後の大ポカが酷いな、と思います。

袁紹のダメ采配は元々見られてた
傾向ではあるんですけど、大事な場面で
ミスってしまいました。

みーさん

2019/10/1619:10:55

袁紹の部下たちは互いの足を引っ張りあっていたので、部下をまとめるカリスマ性も必要だったと思います。後継者をハッキリさせるなど袁紹にはやるべきことや足りない能力はいくつもあったので曹操に勝つのは難しかったと思います。

kum********さん

2019/10/1618:10:07

なっていたと思います。元々勢力としては袁紹>曹操だったのは間違いない訳で、田豊等が示した策は多少時間がかかっても、いろんな手段を使って曹操の力を少しずつ削いで、叩き潰していこう、と言う策略です。

わざわざ有利なのに、負ければ下手したら一気に勢力を失いかねない一大決戦を挑む必要がない。まあこの辺りの判断は難しいですけどね。

田豊等は曹操の勢力は兵数は少なくても強い、だから弱体化させる必要があると判断していた。逢紀達は曹操とは兵数の絶対差があるのだから、もう倒せると判断した。どっちが正しかったかは、官渡決戦であれだけ曹操に粘られたことを見ても明らかですよね。

曹操も孫子の注釈で、城攻めでは10倍の兵力があれば包囲せよ、とあるが敵と味方の将の質に差があればこの限りではない(事実自分は呂布を2倍の兵力で包囲して生け捕りにした)と書いています。これは逆も然りで、曹操達のように優秀な将が守る城であれば10倍の兵力でも足りない、と言うことになります。事実袁紹達の繰り出す城攻めの策はほぼ全てはね返され、結局持久戦に持ち込むしかなかった訳です。

それと重要なキーマンとして張コウが出てきます。基本的に彼は官渡前後、と北伐の時に重要な発言をしています。で、彼が重要な発言をする時、彼の意見を聞き入れないと悪い結果になっているのです。

官渡前は田豊と同じく、曹操は兵数は少なくても強いから、後方をかく乱することが良い、と言う意見を言っています。これは聞き入れず正面決戦して敗北しています。

また官渡では兵糧が奪われそうな状況で、すぐに助けに行くべき、と一番状況を把握していた張コウを向かわせず、わざわざ城攻めの方に回しています。

北伐の時は陳倉を攻める諸葛亮の兵糧が少ないことを見抜き、すぐに退却するでしょうと発言し、その通りになっています。逆に彼の進言を聞き入れなかった司馬懿は正面決戦を挑んで諸葛亮に破れ、追撃の反対も無視して張コウ自身に追撃させた結果、張コウは流れ矢で戦病死する結果に陥っています。

正史でも戦術家として優れている、と言われていた張コウは田豊の後を継げる人材だったと思われ、彼の発言と結果から見ると正しかったのは田豊だったのではないか、と思いますね。

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