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「物部氏と古代の神々について」

ram********さん

2019/10/2010:23:18

「物部氏と古代の神々について」

先日ここで、宇摩志麻遅命が石見物部神社の氏神との教授を頂きましたが、調べていくと邇芸速日命という神が物部氏の祖神、もしくは同じように氏神だとの資料に辿りつきました。
このふたつの関連性はどのようなものなのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

inr********さん

2019/10/2012:55:51

単なる神話ですね

物部氏は軍事と祭祀をもって大和朝廷を構成した一大雄族であるため、神武東征の伝承に登場する邇芸速日命を祖として、大和朝廷に古くから恭順した重臣・側近であるとして描いとものと思われます

物部の祖が、邇芸速日命であるというのは物的証拠・状況証拠から見てかなり疑問です

物部の根拠地は当初岡山にあり、石上布都魂神社(備前国一之宮:岡山県赤磐市)神社が氏神でした
https://www.okayama-kanko.jp/spot/11233

現在の御祭神は素盞嗚尊とされていますが、明治時代までは、素盞嗚尊が、八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂(ふつみたま)と伝えられています。

奈良の石上神宮の社伝によれば備前国より布都御魂が石上神宮に移されここが、物部氏の畿内での氏神にして武器庫でした
事実上、日本最古の神宮です

神功皇后が百済から献上されたという七支刀を保管していた神社です

石上(いそのかみ)氏は、物部氏の一派で祭祀を司どる士族です

痕跡から見て、物部氏は、元々畿内にいた支族でないことは明白です


物部氏の系図には、依羅(イリ)の名前が見えます
これが、満蒙の騎馬民族である扶余(フヨ)の王:依羅(イリ)ではないかと言われてます

つまり物部は、扶余から来た渡来人という説です


扶余族は、古代満州に分布したツングース系騎馬民族で、鹿をトーテムとし、自らを扶余(フヨ、プヨ=鹿)と称していました。

後に、高句麗、新羅、百済、渤海を建国した民族で、特に百済は一時期「南扶余」を国号としており、王族名は扶余氏で、首都も扶余でした。
百済の王族はその後、中国風に名前を改め、「余」氏と改名してます。

百済壊滅時に、支配層の扶余族全て、約6,000人が日本に亡命し、王族は天皇に忠誠を誓って東北の国司となってます

晋書によれば、扶余は晋の朝貢国であり、285年鮮卑に一旦滅ぼされたものの武帝は、人質であった依羅(イリ)を扶余の王に据えて、援軍を送り、鮮卑を大破して扶余国を復興させています

(依羅には、崇神天皇説もあります)



扶余と物部氏を検証してみると、奇妙な共通点が幾つも浮かび上がってきます

物部の氏神である、布都御魂(ふつみたま)は、元々フツ又はフルという神であったと思われ、石上神宮にフツ/フルの伝承が残っています。
実は、フツ/フルというのは、朝鮮神話に出てくる先祖神の名前です

「古代日本正史」によると,素盞嗚尊の本名はフツシで,邇芸速日命(ニギハヤヒ)の本名はフルであるとあります


扶余を飛び出した金蛙王の庶子:「朱蒙(しゅもう、チュモン)」が、朝鮮の項王の娘を娶って扶余の東に勢力を持ち、周辺項王を討伐して「高句麗」を建国しています

朱蒙の旗頭は「三足鳥(サンジョゴ)」であり、八咫烏(ヤタガラス:三本足のカラス)に導かれて東征した神武天皇とエビソードが似通ってます

これがサッカー日本代表のシンボル「八咫烏」が、韓国で失笑を買う理由です


朱蒙の後妻の子は布流(フル)と温祚(オンソ)の兄弟でした
朱蒙は先妻の子を皇太子とした為、布流と温祚は高句麗を飛び出し、布流は海沿いに弥鄒忽(ミチュエル)を建国し、温祚は百済を建国しています。

弥鄒忽は土壌が悪く作物が十分育たないため国家運営に失敗
やがて布流(フル)は行方不明となり、百済に併合されてます。

布流(フル)には日本の天皇家の始祖説があり、海を渡ったと韓国は主張してます


扶余(フヨ、プヨ)は鹿の意味であり、鹿をトーテムとする民族です。
鹿が先祖であり、先祖神の使いであるという思想です

物部が建立した神社には、石上神宮、鹿島神宮、香取神宮があります
鹿島神宮、香取神宮は、モロに鹿にまつわる神社です

分社の春日大社に神(布都御魂)が鹿に載って移動したとされます
春日大社には、多くの鹿がいることで有名で、近年は外国人にも有名です

物部氏が6世紀末に聖徳太子含む蘇我氏の4皇子に攻められ滅ぼされた為、石上神宮が荒廃します
中臣氏も蘇我氏に中心氏族を討たれますが、大化の改新で逆に蘇我氏を滅ぼし、権勢を得て朝廷から藤原姓を得てます

藤原氏(中臣氏)は、鹿島神宮の氏子が出自であったため、石上神宮に代えて、鹿島神宮、香取神宮を神宮としこの2社と伊勢神宮が江戸時代末期まで神宮でした
他に神宮はありません

春日大社は、藤原氏が鹿島神宮から奈良に分社して氏神としたものです。
律令時代から、鹿は神の使い(神獣)とされ、鹿を傷つけると処罰(処刑)されるほどでした

扶余と日本の神道事情の不可解な共通点です

質問した人からのコメント

2019/10/20 13:31:27

お二方とも素晴らしい知識と御見解です。
感服しております。
単純に文字数でとしか判断が出来ません。
ありがとうございます。
これはお二方とも素晴らしいと思います。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

dok********さん

2019/10/2012:17:40

古代に天孫族の到来が三波に渡っていたみたいです。
石見神話が最古層で、宇摩志麻遅命が石見物部神社の氏神が天孫族の大和国到来の第一波みたいです。
次に倭地域の邇芸速日命を大阪交野の磐船神社の氏神とするグループが天孫族の大和国到来の第二波みたいです。
第三波が有名な神武天皇の系統です。最後の神武天皇の系統が同系統の天孫族を吸収して倭地域に天孫族の一大拠点を作り上げたのでしょう。

物部氏が二波に分かれて到来したように、和邇氏も二波に分かれて到来したようです。それで、第一波の福岡宗像神社の三女神を祀る宗像一族と第二波の倭の和邇氏の和邇座赤坂比古神社との時代差があると考えます。
なお、古層での物部氏は武器製造系の技術集団、和邇氏は製鉄製銅系の技術集団と思われ、第一波と第二波とはその金属系の技術手法でブリッジされるみたいです。

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