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聖書に疑問を持つクリスチャンは居てはならないのですか?聖書のどこにも「聖書を...

yah********さん

2019/11/800:20:57

聖書に疑問を持つクリスチャンは居てはならないのですか?聖書のどこにも「聖書を疑うな」とは書いてませんよね?

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spe3さん

2019/11/1100:37:19

>聖書のどこにも「聖書を疑うな」
>とは書いてませんよね?

。。。だからと言って、聖書の記述を疑ってしまったら、たぶん聖書信仰のファンダメンタルは崩壊してしまうのではないのか。

聖書は絶対真実である。という前提のもとに、聖書信仰が成り立っているんだから、それが崩壊してしまうでしょう。

だから、

Ⅱテモテ 3:16を引っ張り出して、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」とする。

ただ、これを書いたパウロ本人は、まだこの文書が聖書に収録されることがわかっていないから、当然にこの場合の「聖書」は「旧約聖書」という意味合いで書いているわけです。

そういう意味で、この聖書の記述は、新約部分について述べているわけではないことを知るべきです。

これについて、屁理屈をこねている人が下にいる。もうこの段階で、「聖書信仰」の土台が、自分たちが考え出した神学によることを証明しているのに気付いてほしいですね。

ちなみに新約聖書の各巻が、「聖霊によって書かれた」としたのは、あくまでも、エレナイオスや、オリゲネス、アタナシウスのような、教会の教父たちですよ。

彼らが現在の新約聖書の各巻を、「聖霊の導きがあった書」としてセレクトしていった「事実」を、しっかり知ってほしいですね。

だから、新約聖書は、聖霊の導きがあった教会において選ばれた。とするのが、カトリック教会や正教会です。

プロテスタント教会は、このカトリック教会や正教会に聖霊の導きがあることを、否定してしまったので、Ⅱテモテ 3:16においても、「新約聖書の記述も、この聖句において、神の霊感としている」。。。なんて聖書を根拠としない「神話」を作り上げているだけの話。


。。。とはいうものの、
>聖書に疑問を持つクリスチャンは
>居ては。。。

居ましたよ。というか、今でも居る。

プロテスタントのリベラル派がそうだろう。

彼らは、聖書の記述と、その時点での自然科学で証明できる事象を両てんびんにかけて、納得できるものだけを、聖書の事実とした。

だから、彼らはキリストの奇跡話や復活を事実と捉えず、「神話化」したでしょう。そしてリベラルの牧師さんたちの中には、キリストの復活を「弟子たちの心の中で起こった出来事」と説明する人もいる。

まあ、最近のカトリック教会もさすがに「創世記」に関しては、神話と捉えている。

世界が6日で出来上がったとされるが、それも象徴的な話だし、アダムとエヴァは、人類の共通祖先を象徴化したものだとする。

これらについて、聖書信仰の某氏は、聖書を自分たちの都合のいいように解釈しているとしますがね。

これは、そうでも言わなければ、彼らの信仰の土台が崩壊してしまうからだろう。とは思います。

はい。

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ベストアンサー以外の回答

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カカロさん

2019/11/1001:22:46

クリスチャンでも読んでいて疑問を持つことはあります。ただ、それを疑いのままにすれば聖書を信じないことになります。ですから疑問ができたら牧師に聞くのです。

疑問を持つこと自体はわたし的にはありです。それはうまく文を読めなかったり歴史背景を理解出来ていなかったりすることがあるからです。しかし聖書は神様の言葉ですから、自分の解釈がおかしいんじゃないかと、自分の解釈をまた疑って牧師に解決してもらいます。聖書を否定してはいけません。

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2019/11/813:39:17

Ⅱテモテ 3:16
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

「この聖句の『聖書』は『旧約聖書』でしょ?!『新約聖書』のことではない」という人がいますが、この聖句自体が「新約聖書のテモテへの手紙」に書かれているので、「新約聖書のテモテへの手紙」も信じていることが前提になっています。

では、この「テモテへの手紙は、神の霊感で書かれた御言葉と信じる」が「他の新約聖書の各書はそうではない」と考えるとしたら、その理由はなんでしょうか?

結局、新約聖書も全て神の御言葉(真実)と信じていない人は、自分こそが「聖書の言葉を(ここは真実、そこは真実でない…と)自由に取捨選択することができる」神だ、と主張しているのと同じです。

dri********さん

2019/11/811:36:54

聖書とは何でしょうか。

キリストがおいでになってしばらく、少なくとも30年ほどの間、キリストにあった使徒たちやその子がキリストについて記録したものは、現在存在しないか、少なくとも教会では取り上げられてはいません。
当時「聖書」といえばそれは旧約のこと、とりわけ七十人訳のことですが、しかし、キリスト自身は「あなたがたは聖書の中に命があると思って探しているが、その聖書はわたしついてあかししているのだ。しかし、あなたがたは命を得るためにわたしのもとに来ようともしない」と聖書に執着する人を非難しています。

恐らくローマ大火の責任をネロがキリスト教徒に擦り付けた64年ごろ以降に、最初の福音書と思われるものが執筆されただろうと学者たちは考えています。しかし、それも教会が認めたわけではありません。なぜなら、そのごろはまだ直接キリストに教わって一部始終を見ていたペテロが生きていたからです。

その後300年もたった325年、三位一体やキリストの神性や人生に関することなどのざっとした教義が全地公会議で決まりました。しかし、ここではまだ新約の書物についての言及はありません。
4世紀も終わりになって、現在の新約聖書にあたる書物の一部が、教会の会議で取り上げられました。しかし、現在の新約聖書そのものではありません。また、このときは全地公会議ではないのです。すべての教会がその書物を公認したわけではなく、現在のものとは違うわけです。

では、いつから聖書は聖書になったのでしょう?
結局、公になっている記録で見たところ、「これこそが聖書なのだ」というものがまとまったのは、実はプロテスタントが「聖書のみ」と言いだしてからなのです。

聖書は、せいぜい1世紀までの出来事しか記されていません。それもとても限定された内容です。

キリストが来たことにより、真実を知り、救われて、それなりの恩寵をもらい奇蹟を行ったり病人を癒したりした人が二世紀にいなかったのでしょうか?キリストによって救われた人々、お弟子さんの後継者たちが、「キリスト教徒はいまたくさん増えたし、こういう決め事にしようじゃないか。こういう習慣を定着させよう。こういう祈りをすることにしよう。」というようなことは何も考えなかったのでしょうか。
もちろん、いましたよ。もしそういう人がいなかったなら、キリストは救いの業に失敗したことになるでしょう。
ところがそうしたすべての成果は「聖書に書いてない」ということでプロテスタントでは「聖伝」であるから否定すべき扱いになってしまうのです。

プロテスタントはそうした主の教えを聞いた人々のことをすべて否定する道を選んだので、実践的な事柄に関しては事欠くようになりました。プロテスタントには悪霊を追い出すこともないし、主の神秘に参画する方法もなかったし、断食や祭日の習慣もなかったのです。
そのため、プロテスタントは先祖返りしてユダヤ教の教えを掘り起こしてそれを重視する一方、「収穫祭」などと称して新しい祭りを作り上げてきました。

それが現在あなたが知っている「聖書を信じるキリスト教」なのです。

本当はそれ以前に大きな転機が2度ぐらいあります。大きなものの一つは十字軍です。それまでは、キリストやお弟子さんが生きた物的証拠などもあちこちにあったのです。布教された地域にキリスト教の国があり、彼らはその遺産を大事にしていました。しかし、西からやってきたならず者のカトリックの集団により、そうしたものは破壊され略奪され紛失しました。
そのため「確かにキリストやそのお弟子さんがこう生きたのだ。こういう教えを伝えたのだ。」という痕跡が、現在はほとんど残っていない有様です。

・・・・・・・・

長々と書いたけれども、要するに「我々が知っている聖書のキリスト教ではない、もともとのキリスト教とはなんだったのか」という問題なんです。

たとえば、なぜ彼らは、ああも三位一体にこだわったんでしょうか。歴史を調べると、当初から彼らはそれを主張しているんですが、聖書のどこにもそんなことは書いてありません。
あなたもクリスチャンでいらっしゃれば、そういう疑問がいくつでもあるはずです。

お探しなさい。あるから。それは存在するんです。

Apolloさん

編集あり2019/11/806:59:08

悪くは無いです。
書かれて無い処は自由です。しかし、聖書の大筋から離れる事はタブーです。
一般的に言われてる「解釈」も的外れなのも多くあるので、自分で真偽を探らないと!

Thomasさん

2019/11/802:24:06

よく「聖書」と言われる人がいますが、「日本語訳聖書」のことを言っている。「原語の聖書」と「訳された聖書」を、同一と考えてはいけない。訳された聖書の言葉には、疑問を持ちます。原文を訳された言語に、全て反映出来ないのは、明らかです。単語の意味、文法が違うからです。つまりそこには誤りがあります。その誤りがある聖書を、文字通り理解するなら、間違った理解になるし、また教えるなら間違ったことを教えることになります。



Thomas Evangelista

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