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ここで、 聖書はでっちあげの創作だ、 と書いている人がいた記憶があります。

知秋さん

2019/11/1812:18:33

ここで、

聖書はでっちあげの創作だ、

と書いている人がいた記憶があります。

一応新共同訳の聖書もっているので、読んでいるとたしかに創作としか思ない箇所もあるのですが、

実際はどうなんでしょうか?

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kei********さん

2019/11/1813:49:34

聖書は新しい部分ほど創作が多いでしょうが、古い部分ほど多神教的になって行くので、全く根も葉もない創作ではないでしょう.新約の部分も、福音書によってかなり内容が違いますね.作られた時代にもずれがあるでしょうし、書かれた目的も違うようです.なお、神話には前後で矛盾することが多いですが、それは古い神話は口伝で母から子へと伝えられたので、いわゆる伝言ゲームのように少しづつ内容が改変され、付け加えられ、また元々は違う話が混同されたりするからです.聖書もそも矛盾点はあいまいな部分を敢えてそのまま書き記したと思われる部分も残っています.少なくとも紀元前後の人間は現代人のインテリ以上に「頭」はいいですよ.

ただ、聖書の価値は、論語や神話などと同じく、宗教宗派を超越した古い人類の思想や知恵の結晶のようなものが残されていることでしょう.古代人がこの世界をどう考え、どのように生きていたかが想像できる.「創作」というのも、人間は全く根も葉もない架空の物語など作れない.小説や詩歌、音楽、オブジェクトも実体験に基づかない頭の中だけで作られた空想は仮に存在しても全く面白くはないでしょう.

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ID非公開さん

2019/11/2216:36:15

実際がどうかは、どんなに知識が深くIQが高い人達が考えても意見は割れると思います。

私は、信じています。


しかし、人は信じられません。嘘つきで、傲慢で、騙し、へつらい、人の足を引っ張って、他人の不幸が好きで、憎い気持ちを持っていても自覚できないで、嫉妬しても自覚はできない人が多いからです。

その中で生きていかなけらばならないです。

どうしたら生きていけるのかと思っています。

zar********さん

2019/11/2017:46:11

神話の書物をでっちあげとするのは、冒涜だと思います。

ubi********さん

2019/11/1918:34:31

人類の歴史が、聖書によればたかだか6000年しかないという主張だけでも明らかにウソ(創作)ですよね。

地球全体を覆ったノアの大洪水が4000年前に現実にあれば、今の科学で楽勝で証明済みであるがそういう事実もないわけです。

神と老人がレスリングして老人が勝ちましたとか200%都市伝説に決まってます。

タネも仕掛けもなく物理的に水がワインに変わるわけないし、水の上を歩くとか都市伝説もいいとこでしょう。

聖書の仕上げに、著者は自分が生きているうちに神の国が完成されると書いてあるけれど、それが現実なら、とっくに地球は燃えて、キリスト教信者以外の人は殺されてしまい、真面目にやってたキリスト教信者だけが生き返って宝石の町が出来上がってるはずですよ。

そういう意味では史実ではなくて、究極の都市伝説の本ってことになるでしょうね。

きわけつけはこうです。

「アブラハムはその子イサクが生れた時百歳(奥さんは99歳)であった。そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。(創世記21章)

でもまあ普遍的な真理も沢山書いてあるのです。

「あなたの父と母を敬え。これは,あなたの神,主が賜わる地で,あなたが長く生きるためである。」(出エジプト20:12)

親の言いつけを守って育った大人しい家庭の子は、家を引き継いで長寿の傾向があり、反抗的で親子の関係が悪いところは、さっさと家をうっぱらって、短命の傾向があることが科学的な統計でも判っています。

2019/11/1914:03:24

聖書は、実際の歴史上の出来事について書いた部分と、本当に伝えたいことを、創作ではなくあえてその形式を使って書いた部分との二つに分かれます。『創世記』の天地創造からバベルの塔までのエピソードは、バビロン虜囚のころに寓話という形式で書かれたものですが、アブラハム以降のエピソードは信仰というフィルターを通してはいますが、史実に基づいています。また、奇跡のうち、海が割れる(実際は潮が引いて海底が現れる)は、ごくまれに起こる自然現象であることがわかっています。奇跡と言えるのは、イスラエルの民がエジプトから逃れる最中にそれが起こったことです。また、考古学の分野では、聖書の史実に基づいて書かれていると思われる歌手尾が事実であることが既に裏付けられています。
『新約聖書』の記述は初代教会が口承で伝えてきたことを取捨選択して文書化したものですが、創作だとすれば、全くの創作だとすれば、多くの謎が残ります。受難のときにキリストを見捨てて逃げるほど臆病だった弟子たちがある時を境にどのようなことも恐れずに宣教を続けるほど勇敢になって宣教を命を懸けてまで続けたのかは、創作では説明できません。かつて迫害者だった使徒パウロの例もあります。
また、『新約聖書』は、言葉では到底言い表されないことを何とか人間の言葉で書き表そうとしたものです。実際に起こったことを完全に理解することはできません。できるのは、聖書の証言を受け入れて信じることだけです。

unk********さん

2019/11/1907:22:54

誰がどう考えてもウソとしか思えないのが多いけどイエスが磔にされた時弟子たちはイエスを見殺しにして自分たちだけ逃げだし、その悔悟の念から命がけの布教したのも史実。歴史書としてでなく信仰として読むのなら人間は変わろうと思えば変われるという事実だけで信仰が強まるなら別にいいんじゃないのか?

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