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ちょっとお聞きしたいんですけど、昭和42年になるまでは、100円銀貨と板垣退助の10...

文ちゃんさん

2020/2/619:56:51

ちょっとお聞きしたいんですけど、昭和42年になるまでは、100円銀貨と板垣退助の100円札が一緒に製造されていたんでしょうか?それと旧岩倉具視の500円札をお店で渡して、お釣りとして受け取る

時は100円銀貨よりも板垣退助の100円札の方が多かったんでしょうか?僕の考えでは当時は100円銀貨の方が若干入りにくかった気がします、古銭屋で100円銀貨が1枚500円なんてちょっと高い気がするんですけど、ちなみにニッケル50円玉は1枚150円で買えますね、分かる方は回答をお願いします。

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edo********さん

2020/2/620:15:03

百円硬貨は銀貨ではなく、銅とニッケルの合金です。
昭和40年代には紙幣と硬貨が通用していました。尚、100円紙幣は現在でも有効紙幣です。

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for********さん

2020/2/800:04:04

100円銀貨が発行されても100円札が消えることはありませんでした。
都会では銀貨、地方では紙幣の併存が10年くらい続きました。
↓のサイトが参考になります。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J046.htm

2020/2/622:40:56

昭和32年9月~翌年12月まで「鳳凰100円銀貨」、昭和34年1月~昭和41年10月まで「稲100円銀貨」が製造されました。
「鳳凰100円銀貨」と「稲100円銀貨」は重さ4・8グラムで銀600/銅300/亜鉛100の三元合金です。

当時、100円の硬貨化については、それまでの硬貨化には見られなかった複雑な問題がからんでいました。一般世論も100円の硬貨には必ずしも賛成ではなく、とくに地方では、祝儀不祝儀の際に袋に入れるのに、硬貨ではチャリンチャリンしておかしいので最低500円は包まなくてはならないという論調で、そんな時代でした。しかし、もっと大きな問題は当時は紙幣の中でも最も製造高の多い100円紙幣を硬貨化すれば、紙幣印刷に携わっている印刷局職員の人員整理や、紙幣原料のミツマタ栽培者の収入低下を招くのではないかという不安が根強く、このため昭和32年5月に臨時通貨法の一部を改正する(100円の貨種を加える)法律案が国会で可決された際、附帯決議として、ミツマタの政府買上量を今後、昭和31年の水準以下にならないようにすること、印刷局職員などの人員整理をせず、労働条件を低下させないよう配慮することなどを公約しなければならないほどでした。こうして難産でしたが、100円銀貨が誕生しました。当時の100円紙幣の流通高は約8億枚であったことから、10年間でこれを100円銀貨と交換するべく、8億枚の製造計画をたてました。銀の使用量を極力押さえるため、銀品位は1000分の600とし、亜鉛1000分の100を加えて銀白色の光沢を保たせ、銅1000分の300との三元合金としました。そして当初は東京、大阪などの大都市に集中的に発行しましたが、これは前述のように地方に100円の硬貨化に反対する空気が強かったためでもありました。

「鳳凰100円銀貨」・「稲100円銀貨」・「板垣100円札」は現在でも使える現行貨幣です。

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tik********さん

2020/2/621:34:47

高価がでたら札は刷らない
日銀に来たものは廃棄です

当たり前だが最初は札が多いです

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