今川義元は桶狭間の戦いで戦死しましたが、それまでは「海道一の弓取り」と評されるほどの一大勢力を築いてます。今川家は、太原雪斎のワンマンチームみたいな印象がありますが義元自身も相当優れた武将だったのでし

今川義元は桶狭間の戦いで戦死しましたが、それまでは「海道一の弓取り」と評されるほどの一大勢力を築いてます。今川家は、太原雪斎のワンマンチームみたいな印象がありますが義元自身も相当優れた武将だったのでし ょうか?桶狭間でも、最後まで激しく抵抗したそうですし。

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ベストアンサー

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太原雪斎が有能な人材なのは確かですが、今川義元も歴史に名を残すほどの名将でした。 世間で今川義元の評価が低いのは後の人たちの想像によるもので、書物などではいかに優れているかが書かれています。戦国時代前期最強とうたわれた朝倉宗滴からも武田晴信・織田信長・三好長慶・長尾景虎・毛利元就とならぶ将と評価されていました。仮名目録追加21条などは周りの大名にも影響を与えるなど軍事のみだけではなく内政、商業などにも力を入れるなど優れた大名だったのは事実です。 輿に乗っていたことから、多くの創作で太っていたから馬に乗れなかったとよく言われていますが、輿に乗れるほど特別な大名だったのであって太っていたわけはないらしいです。実際桶狭間の戦いで逃げるときに馬に乗っていたそうですから、輿は足利家の分家である今川だから乗ることが許されたそうです。尾張では斯波家の人間が許されていたと言われています

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございました。

お礼日時:3/21 15:48

その他の回答(3件)

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義元は優れた戦国大名です。政治的才能が凄かった。 古代ローマで言えば義元がアウグストス、雪斉がアグリッパ将軍でしょう。 それまでの今川軍団は小領主たちの仲良しグループみたいなゆるーい集団だったのを、義元はピラミッド状の明確な構造の家臣団に再編しました。 ただ最後の最後の瞬間に運がなかった。でも運がなかったからと言って軽んぜられるべき男ではありません。 まあ、駿河、遠江、三河の小領主たちを相当厳しくコキ使ったので、ひょっとしたらひょっとして信長の奇襲の時に今川軍団の中に「いっそ義元様が死ねば自分達は楽になる」と考えた不忠者がいなかったとは言い切れないような気がしています。

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有能な大名だったと思います。 ただ地理に疎いのは仕方がありません。 信長の軍略を侮っていたことも原因の一つです。 猿も木から落ちるとみんなが思ったと思います。

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武田信玄には快川紹喜 毛利元就には安国寺恵瓊 伊達政宗には虎哉宗乙 など他にもいますが優れた武将には相談役、軍師、教育係など優れた和尚さんが付いていました。 その進言を聞くも聞かないもその武将次第で優れた和尚さんなどの言う事を聞き取り入れるのも武将の器です。 優れた配下を持つのも武将の器でもあり、今川義元を含め上記のような者がいる事も武将の能力であり、またそれを差し引いても上記の武将や今川義元なども優れた武将、戦国大名だと評価されます。