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昭和20年の正月について、松飾りは何処の家でも

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ID非公開さん

2020/5/807:24:51

昭和20年の正月について、松飾りは何処の家でも

しなかったそうですが、揃える余裕が無かった
のでしょうか?それとも禁止でもされて
いたのでしょうか?
祖母の証言で少し疑問があります。
昭和20年の正月は年末に餅米の配給があり、
餅は食べられたそうです。柑橘類のモノも家の庭
になっていて、松飾りを飾る余裕が無かったようには
思えません。
ただ祖母の証言では、昭和20年の正月は晴れ着を
モンペの下に着て餅を食べただけで、
何処の家も松飾りはしなかったと言ってたんです。
初詣もお年始の挨拶と言う形で近所の神社に
行ったそうですが、常であるドンちゃん騒ぎも
鳥居や門の松飾りも無く寂しい正月だったと
言っていました。実際はどうだったんでしょうか?

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ata********さん

2020/5/814:26:31

地域にもよりますよ。
東京では昭和19年11月から100回以上の空襲が繰り返され、昭和20年元日の深夜も空襲警報が発令されてました。
とても松飾りとか言ってる場合じゃなかったはずです。

地方にいくとまだまだ直接の被害はなく、物資がとにかくないというのと、今と同じ「不謹慎厨」が闊歩していたため、万事控えめに、という情勢でした。

地方によってあの戦争、そして玉音放送の捉え方が違うのが印象的でした。
東京在住の祖母は、昭和20年にはもうラジオや新聞がなんと言おうと負けるのは確実だとみんな思ってた。
憲兵に聞かれたら大変なので、勤労動員の工場の隅で仲間と小声で「もう負けだろう」と囁きあってたそうです。
しかし地方の農村在住の親戚は、日本は勝ってるとばかり思ってたので玉音放送はとにかく驚いた、と言ってました。

zez********さん

2020/5/811:25:26

前年夏のマリアナ沖海戦の敗北とサイパンの陥落は、「絶対国防圏」として国内的にも大宣伝されていた地域が米軍に奪われたということ以外の何ものでもありません。ここらあたりから日本では国内の引き締めが激しさを増していくようになりました。

本土空襲はこの時期はまだ中国奥地からの九州爆撃くらいしかなく、全国的に空襲の影響が出てくるのはマリアナからの東京大空襲(3月)以降になります。

そんなわけで、45年の年始はまだ国民生活は機能しており、しかし戦争の先行きが絶望的になってきていることが誰の目にも薄々分かってきている頃でした。こうなると今も昔も「不謹慎」厨が自警団と化して暴れまわるのは同じでして、それに加えて内務省とマスコミの自粛(そして浮いたお金を軍に寄付しよう運動)宣伝が行われれば……と、まあ、そういうことです。

戦時中の民間生活は結構敏感に戦局の変化を反映しており、大戦末期だけの印象で理解しようとすると実像を捉え損ねてしまいがちなんですよ。

com********さん

2020/5/808:30:58

昭和19年の年末から昭和20年といったら太平洋戦争も末期で、日本が敗戦に向けて怒涛のように空襲を受けてた頃じゃん。もちろん、幸運にも空襲を受けなかった地域もあるけど、だからこそ都会や空襲被害を受けた地域からの疎開者がゴロゴロやって来るし、健康な男達は徴兵されて死んでくるから普通に喪中にもなるし、はっきり言って、呑気に正月飾りをしてどんちゃん騒ぎしたくなるムードではないよね。

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