豆をかじりながら歴史上の人物の悪口を!

豆をかじりながら歴史上の人物の悪口を! …いや悪口言っちゃダメですけども(笑)。どんなに酷い人物であっても歴史上の先人には違いないわけで、ある程度の(最低限の)敬意は払うべきだと個人的には考えます( ̄ω ̄) 閑話休題。 質問に入ります。 中国史上で「人に語って聞かせたくなるほどの逸話を持つ人物」をご存知でしたら教えて下さい。できれば、その人物の簡単なプロフィールと、その逸話のあらましなども含めて回答頂けるとありがたいです。 私も中国史を好きになって長いですけれど、掘れば掘るほどザクザク出てくるんですよねえ(笑)。まあ長い歴史を誇る中国史ですから、まあいろんな人がいますよね。面白い人怖い人、バカバカしい人から純粋に凄い人まで。日本語の記事があるならある程度調べもつきますが、そうでない人もたくさんいます。先日の質問でも「梅河豚」の逸話を教えて頂いて、初めて知る話でとても面白かったです(^-^) 例によって先秦時代から中華民国まで、多少は実在かどうか怪しくても構いません(太公望とか羅貫中みたいに実在が証明されてなくてもOK)。ただ花木蘭みたいな架空の(と思われる)人物は今回はNGで。 あと、私が知ってるかそうでないかは気にしなくて大丈夫です。あくまでも「回答者さんが人に話して聞かせたくなる」かどうかでお願いします。私だったらそうですね、王玄策とか楊大眼とかになるでしょうかね(*´▽`*) では、今回も皆様のご回答をお待ちしています♪

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ベストアンサー

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ずいぶん前にも漢晋さんと豆をかじった記憶があります、笑 steさんがお挙げの馬殷ブラザーズの逸話、私大好きなんですよね。 「破鏡重円」とか、王維の「安史の乱」での容疑を晴らした詩とか、「宇宙大将軍vs羊侃」とか、中身もイケメン独孤信とか、文襄六王ブラザーズとか、いっぱい好きなエピソードがあるのですが、どれにしようかと一晩悩んだ結果、コレにします! わが原点、隋末唐初から、羅士信くんです! 御存知の通り、年齢不詳ながら(20才死亡説と28才死亡説があり、両方違ってたぶん23才死亡)、14才で初陣を飾り、20代で処刑されるまで戦場を駆けぬけた快男児です。 あまりの快男児っぷりから、成という諱を創作され、さらに『隋史遺文』『隋唐演義』では羅成と羅士信の二人に分裂。羅士信は史実通りの人生を送り、羅成は羅士信の兄貴分である秦叔宝の親戚かつ、幽州総管・羅芸の子として登場するという、二倍おいしい感じになっていますが、フィクション世界のことは置いておいて。 一応、『旧唐書』などから経歴を追っていきますね。 正史の記述でも、しょっぱななら鮮烈で、14才で張須陀の軍に志願するものの、若すぎて一度は拒絶され、奮起して二枚の鎧を着こんで敵兵を数人殺して戦えることをPRするという血気盛んな登場をします。 その後、隋末最強の名をほしいままにした張須陀の軍の主軸として、先輩の秦叔宝とともに強大な勢力を誇った盧明月の10万を、わずか千人で夜襲をかけますが、なんと秦叔宝と二人で陣営へ忍び込み、火をつけます。この時の表現が『旧唐書』の秦叔宝伝によると「煙焰 天に漲る」です。マンガです。 さらに、『旧唐書』の彼の伝から引用しつつ意訳すると、 ・・・戦うたびに須陀が先陣をきり、士信は副となった。煬帝はこれを知ってねぎらい、須陀と士信の戦陣の図を描かせ、内史にて掲げた。 煬帝ですらこの若人の活躍を知っていたわけです。 しかし、その張須陀の不敗神話も崩れさり、滎陽で張須陀は李密の策略によって戦死します。52才でした。司令官を失った羅士信たちですが、裴仁基が次の司令官として着任します。しかし、この頃になるともう煬帝には正確な報告はあがりません。虞世基らが差し止めていたからです。 裴仁基は奮闘しますが、味方のはずの監軍からの嫌がらせで進退窮まり、ついに李密に投降します。息子で猛将の呼び声たかい裴行儼や秦叔宝、羅士信もこれに随いました。 李密はプライドの高すぎる男で、自信家でした。東都洛陽に拠る王世充との決戦を望みます。裴仁基は反対しますが、大幹部の単雄信らの勧めで決行され、李密はズタボロに負け、魏の幹部連中の大半がそのまま王世充に採用されましたが、王世充は欠点の多い人物で、秦叔宝なんかは程知節らとともに面と向かって決別を宣言して王世充のもとから去って李淵に投じています。それを許す王世充もやはりひとかどの人物だと思いますけどね。 そして、裴仁基&行儼父子の威名は王世充幕下においてすさまじく、猜疑心の強い王世充とぶつかるのは時間の問題でした。結局クーデタが露見して殺されます。「万人敵」と称された裴行儼のあっけない最期でした。 その下の弟に、科挙合格者から武則天に左遷されて辺境へ赴任し、そこでの経験を生かしたのか、突厥相手に無双した初唐屈指の名将の裴行倹がいます。もっとも、父と兄が殺された年に生まれていますので、薫陶はうけていません。 一方、羅士信も王世充を見限って唐に帰順します。秦叔宝らが唐に投じるのも、裴仁基父子が殺されるのも、羅士信が唐に帰順するのも619年の事です。王世充が傀儡の恭帝を殺して帝位についた後ですね。時系列的には、王世充即位、裴仁基処刑、みなさん離脱、です。 羅士信は、それまで張須陀や裴仁基という頼れるボスのもとで多感な時期を過ごし、その若さで百戦錬磨といっていいくらいの戦闘を重ねました。裴仁基や秦叔宝が李密につくとなれば従い、王世充に降るとなれば従いました。 しかし、少年から青年に成長し、慕った裴仁基が亡くなると、自分の意思で唐へ帰順。さらに3年戦場を往来し、最終的に劉黒闥に捕らわれても節を曲げずに処刑されました。諡号は勇です。 生前からの希望で、裴仁基の墓のそばに葬られたとあります。よっぽど羅士信にとっていい上司だったのでしょう。 『旧唐書』と『新唐書』の忠義列伝に彼の伝は入っていますが、わずか23才で忠義列伝に入るというのもすさまじい話ですよね。人気が出てフィクション世界で二人に分裂するのもわかる気がします。ヒイキしたくなりますもん。 私、『銀河鉄道999』みたいな、少年が試練を乗り越えて大人の男になっていくオハナシが大好きでして、羅士信はまさしくドストライクです。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

みんな大好き羅士信くん!! ではなくて、裴仁基のアニキに惚れたのでノブさんをBAに(笑)。張須陀の後任なんて大したことなかった…と思いこんでたので、ノブさんが書いてるの見てえっと思って調べたら、やだ何このイケメン惚れる!ってなりました(笑)。 「豆をかじりながら歴史上の人物の悪口を」というのは田中芳樹氏と陳舜臣氏の論談本『中国名将の条件』の章タイトルです。好きなんですよねこの言葉(*´▽`*)

お礼日時:8/10 9:26

その他の回答(3件)

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五代十国時代の、呉の楊行密と楚の馬殷は宿敵同士という関係でした。 もともと、唐末に秦宗権という群雄がいました。 悪逆非道を絵にかいた中国史上でも五指に入れてもよい極悪人でしょう。 ぺんぺん草も生えないくらいとよく言いますが、それを地で行った悪党でした。 『旧唐書』の秦宗権伝より。 【賊既乏食,啖人為儲,軍士四出,則鹽尸而從。】 単純比較するのもどうかと思いますが、董卓なんか可愛い方ではないか と思うくらいです。 で、この秦宗権の死後に、孫儒という武将が後を継ぎ、 江淮一帯を荒らしまわりました。 この孫儒と激しく戦ったのが、楊行密でした。 楊行密は、孫儒を撃退して、勢力を固めて、呉を建国していきました。 孫儒の死後、このグループの後を継いだのが、木工あがりの馬殷でした。 馬殷は、湖南に進出し、楚を建国しました。 そのため、呉と楚は険悪な関係でした。 楊行密は、孫儒軍の降兵の中から五千人をを選りすぐって、 「黒雲都」という精鋭部隊を作らせました。 李克用の「鴉軍」みたいな部隊だったのかもしれません。 実は、呉と楚の中核を担った兵士たちは、同じ反乱軍の出身者でした。 この黒雲都の指揮官に馬賓という武将がいました。 実は、この人は馬殷の弟でした。 楊行密は、それを後で知ることになったのですが、 結局、馬賓を兄のもとに帰したのでした。 小説的なエピソードですが、ちゃんと『十国春秋』に載っています。 楊行密は、精鋭部隊の機密を知る人間を、むざむざ敵国に 帰してしまうわけで、ある意味お人よしです。 馬賓も、楊行密に問われるまで、馬殷の弟ということを 黙っていました。 楊行密に対する忠誠心があればこそ、あえて言わなかった ようです。 このあたりは、武侠という感じがします。

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んじゃまあ紂王と妲己についてでも、たまには三国志以外の話でも。 暴君として知られる紂王ですが、実際は祭祀を非常に良く行い、積極的に政務を行っていたことが伺われます。少なくとも酒池肉林、と言うような遊び惚けている暇はなかったと思いますね。 そう考えると暴君と言うのは、勝者側の都合で作られた人物像の可能性も高いと思われます。 ついでに妲己と言う名前ですが、商の甲骨文に妲己と言う名はどこにも出てこなく、また妲と言う文字自体が同時代には存在しなかった、と言う話もあるので、紂王を暴君に仕立て上げるうえで創作された悪女の可能性が高いですね。貂蝉みたいなもんでしょうか。 んじゃそこまで政務に熱心だったのに何故ほろんだか。これは多分先代から中央集権化を図ったことで、パワーバランスが崩れることを恐れた周辺部族が周と協力して反乱した為でしょうね。 感じとしては後醍醐天皇の親政が武家社会に対して不平等で、それに反発した武士たちが足利尊氏を頭に反抗したようなものだと思います。 そう考えると、あそこまで悪し様に書かれるのはちょっと可哀想に思えてきますね。本当の悪人は他にもっとたくさんいるでしょうに。

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孫武(孫氏)について 有名なのが孫氏の兵法など 書いたら長いので貼り付けますね。 孫子姫兵を勒す 孫氏は中国のとある王様の下として働いてました。 闔閭(王様)、宮中の婦人で、少し軍の指揮を見せてもらうことはできるか 孫氏に尋ねると 孫武は宮中の美女180人を集合させて二つの部隊とし、武器を持たせて整列させ、王の寵姫二人を各隊の隊長に任命した。 結局美女180人は 孫氏言うことを聞かなかったので 二人のリーダーの首を切り落とし その結果 残りの女性は孫氏 言うことを聞いたエピソードが有名ですね。 孫武が「左右前後がわかるか」と聞くと、一同「わかります」と答えた。孫武は「前といえば胸を、左と言えば左側、右と言えば右側、後ろと言えば背側を見よ」と言った。女性たちは「わかりました」と答えた。 そこで将軍の印の鉄斧を置き、命令をはじめた。太鼓を打って「右!」と号令すると、宮女たちはどっと笑った。 孫武は「命令が不明確で徹底せざるは、将の罪なり」と言い、命令を何度も繰り返した後に「左!」と太鼓を打つと、また宮女たちはどっと笑った。 孫武は「命令が既に明確なのに実行されないのは、指揮官の罪なり」と言って、隊長の二人を斬首しようとした。壇上で見ていた闔閭は驚き「将軍の腕は既によくわかった。余はその二人がいないと飯もうまくないので、斬るのはやめてくれ」と止めようとしたが、孫武は「一たび将軍として任命を受けた以上、陣中にあっては君命でも従いかねる事がございます」と闔閭の寵姫を二人とも斬ってしまった。そして新たな隊長を選び号令を行うと、今度は女性部隊は命令どおり進退し、粛然声を出すものもなかった。 孫武は「兵は既に整いました。降りてきて見ていただきたい。水火の中へもゆくでしょう」と言ったが、闔閭は甚だ不興で「将軍はそろそろ帰られるがよろしい、余はそこに行きたくはない」と言った。孫武は「王は言を好まれても、実践はできないのですね」と答えた。しかし以後、闔閭は孫武の軍事の才を認めて将軍に任じたのである。 中国と日本史について 日本の竹取物語が有名ですがもともと そのモデルは 中国地方話だと言われています。 「斑竹姑娘」 士農工商も中国言葉であって 日本言葉ではないです。

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