ベストアンサー
東條は関東軍参謀長時代から陸軍次官、陸軍大臣、総理大臣と一貫して反戦主義から程遠い好戦派でした。 先ず、当時の日本がどんな国だったかを知る必要がありますね。長文、申し訳ありません。 当時の日本は、明治維新後に興った新興宗教とも言うべき天皇教である国家神道を基本に、軍(主に陸軍)と極右の主導による強烈な思想統制、言論統制、報道規制で国民はがんじがらめでした。 天皇は現人神(あらひとがみ=人間の姿でこの世に現れた神様)、その天皇が統治する日本は神の国、日本人は世界でも飛び抜けて優秀な民族、外国と比較する事すらとんでもない!と。そして日本の戦う戦争は天皇の為の聖戦で、悪いのはすべて外国、、、 国民はこう言うことを毎日叩き込まれていました。マスメディアは軍に脅かされて軍の意向に沿うプロパガンダばかり。朝日新聞も毎日、読売報知、産経、NHKも映画もみんな同じでした。 軍が政治を牛耳り、誰を大臣にするかすら軍の意向が優先しました。国会でどういう議論がされているか、内閣や軍がどんな政策を考えているか、、、そういう情報も軍の検閲を受けた一方的なものが新聞、ラジオを通じて報道されました。 治安維持法、言論・出版・集会・結社等臨時取締法、治安警察法、宗教団体法、不敬罪、警察犯処罰令、陸軍刑法、海軍刑法、軍機保護法、軍用資源保護法、国防保安法、行政執行法、新聞紙条例、思想犯保護観察法、、、この様な法律、条令が国民、マスコミを縛り付けていた。 こう言う事に疑問を持ったり意見を出したりするとたちまち逮捕、投獄、拷問、、、軍の気に入らなければ大臣ですら殺される時代でした。従って一般国民は「大日本帝国はすごい! 悪い外国を叩き潰そう!」とハッスル、知識のある有識者たちは沈黙、と。 近衛文麿も日本を崩壊路線に導いた国賊の一人ですが、結局は陸軍に担ぎ出され、陸軍に利用され、陸軍に放り出された哀れな男です。海軍すら抑え切れなかった陸軍の暴走を文民でお公家さんの政治家がコントロール出来るわけがありませんね。 第三次近衛内閣では、山本五十六などの影響もあって近衛は平和路線の模索を始めていました。益々厳しくなる国際情勢の中で日本の針路を決めるにあたり、それを知っていた海軍大臣は「総理に一任します」、と。近衛、「私に任されたら中国からは撤退し、アメリカと友好関係を調整します」 これに激怒した東條英機陸軍大臣は「中国からは絶対に撤退しない。アメリカとは戦争だ!」と強烈な横やりを入れた。「総理は悲観的過ぎる」「日本に弱点があればアメリカにも弱点がある」、そして「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」、と。 近衛応えて、「個人としてはそういう場合も一生に一度や二度あるかも知れないが、二千六百年の国体と一億の国民のことを考えるならば責任のある地位にある者として出来る事ではありません」 東條は「性格の違いですなあ」と笑ったそうです。「性格の違い」で国をつぶされてはかないませんね。 そして会議のあと、東條は近衛のところへ二度も使いを送り、「この件では陸軍はこれ以上話し合うつもりはない」とトドメを刺した。結局近衛は陸軍側と四度にわたり会談しましたが、陸軍の方針を変える事は出来ず、第三次近衛内閣は総辞職に追い込まれました。 そして次期総理大臣には木戸幸一内大臣の強い推薦で東條英機が任命されました。近衛が内閣を放り出して東條に丸投げしたと言う人がいますがそれは大きな誤解です。 「東條でいいのかね」と心配する周囲に木戸は「オレに任せてくれ。東條ならアメリカと交渉出来る」、と。戦後、木戸は「あれは失敗だった」と言ったそうですが、国がつぶれ310万人の日本人が死んだあとでそんな事を言っても遅い。 東條は、天皇から「今までの経緯は白紙に戻し、米英との戦争は避けるように」と要望されたにも拘わらず、総理大臣・陸軍大臣として開戦を承認。「アメリカとの交渉」はもちろん、東條が天皇の意を受けて開戦を防ぐ為に必死に努力をしたと言う記録はありません。なぜか?そんな事はしなかったからです。 なお、「後を引き継いだ東條をしても、もはや開戦の流れを止める事は出来なかった」と言う意見もありますが、その「流れ」を作った張本人は東條だったのですよ(笑)
NEW! この回答はいかがでしたか? リアクションしてみよう
質問者からのお礼コメント
ありがとうございました
お礼日時:2020/9/18 10:06