本能寺の変からわず11日後に岡山から京都まで戻って来て秀吉の軍勢は時速何キロくらいで進軍して来たた のですか?思い鎧や武器を持っているから走って来るねはドラマの中の演出で、実際は急ぎ

本能寺の変からわず11日後に岡山から京都まで戻って来て秀吉の軍勢は時速何キロくらいで進軍して来たた のですか?思い鎧や武器を持っているから走って来るねはドラマの中の演出で、実際は急ぎ 足でくれば寝る時間や休憩を入れても時速4kmで1日40km、余裕で着きますか?

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「中国大返し」は奇跡のように言われますが、実際のところを調べれば、それほどのことでもないのが分かります。 備中高松城から摂津山崎まで、175キロばかしあるそうです。何千人の兵隊が徒歩で6日で到着したのであれば確かにすごい。しかも姫路で二泊休んだとか、とすると計算すると、えーと、時速4キロで12時間歩けば・・・余裕だと思います? 実際には、秀吉と少数の親衛隊のみが馬で駆けて戻ってきただけで、大半の兵は後ろに置き去りにされています。じゃあ、山崎で決戦した兵隊はどっから沸いて出てきたのかというと、四国征伐に出発しようとしていた織田信孝、丹羽長秀の率いる部隊を、途中で吸収しただけなんです(なので、山崎合戦の名目上の大将は信孝です)。 しかしここが秀吉の宣伝戦の絶妙なところで、まるで毛利と戦っていた軍団がまるごと戻ってきたかのように見せかけることによって、「秀吉はスーパーマンか」と人々を驚愕させることになります。こうなれば様子を見ていた武将たちも「バスに乗り遅れるな」と、続々と秀吉軍に合流してきます。形勢が一気に秀吉に傾いたのは、こうした演出力(平たく言えばハッタリ)によるところが大きかったんです。

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羽柴軍が撤退する速度と仮に毛利軍が 羽柴軍を追撃した場合の毛利軍の速度 に差が、あるわけでは無いので 羽柴軍が毛利軍と手打ち、に及んで 毛利軍が追いかけないことを確立でき れば羽柴軍の撤退に追撃される心配 ないし撤退の道中に敵に待ち伏せ、 されるような、敵地を突破行軍する 危険については備前の宇喜多氏が 羽柴に敵対せず撤退に協力したのが 大きかったと思います。 柴田軍が、羽柴軍のような撤退が 出来なかったのは上杉軍に追撃される 危険おおかったので越中に佐々軍、 加賀に前田軍を布陣させて追撃を 警戒し全軍による一斉撤退が 出来なかった、からです。

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織田信長は、自分の領地内に幅三間半(約6.4m)の道路整備をしたという記録が残されています。 そして、それが軍団の速い移動を可能にしました。 甲州征伐時には徳川家康が、信長の出陣に際して、信長の宿所(御座所)を設営していました。 この事から、近年の研究では、「中国大返し」はこの整備された道路と途中の中継地点としてその御座所を使い、速い移動を可能にしたと考えられています。

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調査資料によると京都から九州太宰府まで陸路で10日でいけたそうです。

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中国大返しでは、移動距離約230キロです。 ただしこれを平均しても、あまり意味はありません。一日70キロの急行軍をした日もあれば、攻撃準備のために城に滞留した日もあります。 秀吉軍は備中高松城から姫路城まで、約95キロを3日で移動しています。 例えば長篠の戦では、5月14日岐阜発、長篠の戦は同月18日。その移動距離は約115キロで、これを5日で移動しています。これが通常のスピードとすれば、中国大返しはハイペースです。さらにその間、ひどい悪天候だったことを合わせて考えれば、秀吉軍がいかに強行軍をしたか想像できます。

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実際は、もともとの羽柴軍、全軍が着いた、のではないそうです。

秀吉が自分の手柄にする為に作られた歴史で実際は戦いの当日、山崎の戦場にはついておらず、大将以下全軍が到着した時には既に戦いが終わっていたので光秀も農民の竹槍で討ち取られた事にしたのですか?では実際の功労者は誰ですか?畿内にいた信長軍所部隊の連合軍のリーダーは?秀吉が姫路辺りから指示したのですか?