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https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10231131350?page=2 の返信欄でここまで書いている途中で返事もいただけないままBAがきまってしまったようです。残念ですがしかたがないですね。 ま、そのあたりは質問者様の考え必つですなんですけど、最後まで書いておきます。 ============ sgi********さん2020/9/1000:54:51 つまり、僧俗一致の時点で、創価学会員にとっての信仰とは、大御本尊への帰依ではあるのですが、祈り始めたときにあったのは、日々の信仰への祈りとその結果がどうであるかということで、その証明した結果として大御本尊は確かに本物だ、という実感だったわけです。 もし、これが初めに大御本尊は本物だ、と信じなさい、そうすれば祈りは叶うという順番で指導されたなら、今の創価学会はあり得なかった。 信仰する動機は、自分が幸せになりたいから、今の現状を何とかしたいからという自分の都合に合わせて、試しに祈ってみるか、ダメなら捨ててもいいんだから、とにかく祈ろう、と言うものだったわけです。 そして祈ってみたら、なんとすごいことか、ほんとうに「祈りが叶った」とびっくりして、じゃあ、みんなにもこの話を聞かせてやろうという、そういう勢いが折伏弘教の強力な推進力となっていったわけです。 だからあとになって、この大御本尊はすごいぞ ====================== つけたし というように思うようになっていきます。これが当時の学会員の普通の感じ方だったと思います。個人の生活の苦悩、悩み、→信心の話を聞く→では試しにやってみよう→祈った→結果が出た→すごい→根本は大御本尊様だったのか→そういうものだと理解する という流れですね。 創価学会からみて大御本尊がどのようなものかと言う事については教学的な立場からの理解がありますが、深い意味や理論などはよくわからない、というものだった。ただ信じることを教えられる。そのあたりは今の法華講の方と立場的には同じだったんじゃないかと思ってます。 もし、本尊に対して疑問があって、なにかおかしいと感じることがある場合、それは言ってはいけない、本尊に関しては疑問を挟むな、というのが通常の指導でしたから、誰もそれ以上については意見は述べない、というのが学会の中での暗黙の了解でしたね。 つまり、当時の学会員にとっての大御本尊は、他宗が言うような偽物かもしれないというような疑問がもしあったとしても、ただ信じるべし、ということがすべてだったと言う事で、それ以上のものではなかったわけです。 もう一つの当時の学会指導には信心は結果を出してみて初めて分かるものだ、というのがありました。祈って結果が出たならば、それは正しいという論理です。この論理を大御本尊様に当てはめてみると、祈って結果が出るから大御本尊は正しいのだと言う事になります。 日蓮正宗のような僧侶集団ではなく、創価学会は信者の団体ですから最終的に祈って結果を出すか出さないかだけなんですよね。 ですから大御本尊に対する学会員の認識は、祈って結果が出るのは大御本尊は正しい本尊だということになり、学会員の祈りがそう言わせたものだということになります。 あとは、日蓮正宗の方が理論的に歴史的にその正しさを証明して日蓮宗様に提示してごらんになればすべては収まります。それができなかったからこそ、創価学会が登場してきて、大御本尊の正しさを証明したわけなんですから、その創価学会を破門してしまうと言う事は、その信心の結果の証明も私たちがします、とおっしゃるのと同じことかなあと思うわけです。 結局、今のところ、日蓮正宗さんから大御本尊の歴史的証明、正しさを証明する発言はお聞きできておりません。年を追うごとに出てくるのは、大御本尊様がニセモノらしいという話ばかりなので、やはりあの日蓮正宗創価学会の時代に学会員が信仰の証明役になったあの方法は素晴らしかったと私は思います。 じゃ。今の創価学会として信仰の根本とすべき御本尊はどういうものが良いのか? というと、今のところ、大石寺の大御本尊は受持の対象から外します、ということで一つの区切りをつけて、さ、次はどういう手を打とうとしているのかな というところが多くの人の関心事となっているようです。 日蓮正宗の大御本尊は功徳の出る本尊だと証明した学会員が、次にどのような御本尊を大御本尊と同じような功徳の出る本尊としていくのか。 いろいろご意見はおありかと思います。 信仰の根本の本尊論、古い時代からいろいろ意見があったようで、その議論は、やむことがないようです。 みなさんはどのようにお考えになりますか?

補足

みなさん、たくさんの回答ありがとうございます。時間途中でなんですが、これから忙しくなるので、本日を持ちまして知恵袋(宗教)は幕引きとさせていただくことになりました。ほんとは、コメント返したいwakaiさんたちもおられるのですけど、時間がないので、ご無礼の段、平にご容赦ください。 大学受験とかこれから忙しくなるので勉強に集中したいと思っています。ですので知恵袋も勉強に役立つところだけの参加となります。 baは皆さんで選んでください。このまま時間までオープンにしておきます。 最後ということでちょっと力はいりました。暴走しまくりました、おもしろかったです。 みなさん、ありがとうございました。

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回答(7件)

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マエダ君と意見があってしまった aoaさんが色々言うが、日蓮正宗も日蓮が書いた本尊をコピーしているわけじゃないからなあ というか、aoaさんは僕の相手はしてくれないみたいだな

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〉「論に窮して敗北」を認めたくないために、「創価学会員さんへ」と質問しておきながら同じ仲間に「BA献上」して「論破した」と叫ぶしかないということです。 違うと思うが、aoaさんのは質問ですらないかもね

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日蓮正宗では自宗の本尊を「弘安二年の楠板本尊を書き写したものだから本物」と言っていますが、この「書き写す」というのは「マネして書いた」という意味になりますね。 さらにそれを印刷して配られたものを拝んでいるわけですから、やり方としては創価学会とまったくいっしょです。 この事実だけでも日蓮正宗の本尊論は完全に破綻していると思います。 冒頭挙げて頂いたURLのやり取りには私も参加していました。 私も日蓮正宗法華講員の けいじろうさんが最後フリーズしてしまって ご返事を頂けていません。 このスレでけいじろうさんは、「御本尊と日蓮の取り扱いについては日蓮正宗に権限があって、許可制で有る」との趣旨で語っていらっしゃいました。 そこで私が けいじろうさんに逆質したのが次の2つです。 ①私は今でも66世日達上人の御本尊ですが、御授戒受ける時「御本尊授与!」と言われましたので「もらった」と思い込んでお返しはしてないですけど、大丈夫ですよね? ②>一、折伏した人は信徒として各寺院に所属させること 学会員の私が折伏したらお寺に連れてかないといけないんですか? 今回参加なさっているaoaさんもそうですが、「創価学会員さんへの質問」としてスレを立てておいて、最後はフリーズして「法華講員さんにベストアンサー献上」というやり方がパターン化しています。 「論に窮して敗北」を認めたくないために、「創価学会員さんへ」と質問しておきながら同じ仲間に「BA献上」して「論破した」と叫ぶしかないということです。 aoaさんの質問パターンhttps://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/myspace_quedetail.php?writer=1148435477 宗教上のレベルもさることながら、人間的なレベルも疑いたくなりますよね。

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wakさん、回答ありがとうございます。 拝見しました。いやあ、おもしろいですね。 日蓮正宗法華講の方は憎めないですね、なんだかかわいらしい。(#^^#) 究極の一撃が存在するはずなんですけど、それは何なのかがわかるまでは変わらないようです。 なんだかぬるま湯のなかでのんびりしている感じで、それはまた、それだけ幸せなんだろうなと思うばかりです。必死で真剣に御本尊を求めて祈ると言う事があれば、そうした切実な感じは文章にあらわれてきますけど、ないですね、そういう緊張感。 むかしよく創価学会批判に言われたことに、 おい、創価学会、お前、必死だな! と言うのがありましたが、 けいじろうさんはすこしこの必死な感じ、切羽詰まった感じがあって、良かったです。BAを法華講の人に差し上げたそれにそれが感じられる文言があり、あれ、なんだろう、この引っかかる感じはと言うのがありました。

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佛教は釈尊の教えと行動が元になっています。その一つである日蓮宗各派は、日蓮聖人の教えと行動が基本です。釈尊から代々続く出家者によって、辺土の小島まで伝えられてきたのです。日蓮聖人の場合も、跡を受けられた日昭上人や日朗上人・日興上人の末弟達によって、現在まで教えが残されたのです。そうして師から弟子に・師から弟子にを繰り返す過程で、釈尊や日蓮聖人の教えが深められて行ったのです。 日蓮正宗の教えだって、ポッと出て来たわけではなく、2500年・700年の歴史の中で、次第次第に熟成されてきたわけです。 伝統教団と決別した創価学会は、本尊を含めた教義をこれからは独自に作っていかねばなりません。それは大変な作業だと思います。伝統教団であれば、歴史の中で切磋琢磨する中、少しずつ深い教義になって行きました。 新興教団の場合は、日蓮聖人代々の教えを採用せず、しかも教義に矛盾が無いようにしなければなりません。日蓮聖人から現代まで空白です。これって実際上は不可能だろうと思いますね。 結局は、教義が曖昧なまま続けざろう得ないと思います。そうなると御利益信仰だけに頼るのでしょうが、平均的生活が向上した今、そうした御利益にどれだけ意味があるかです。貧乏な人も、昔よりは裕福でしょう。不治の病だって、昔に比べれば遥かに少なくなっています。 私は質問者さんが例に出された、藁をも掴む心は、そのまま佛の心には繋がり難いと思っています。きっかけにはなるかもしれませんが、何処かで気持ちを変えないと、日蓮聖人の信心にはなっていかないように思えます。 でも考えてみれば、幾ら教義が立派で矛盾がなくても、信者の僧俗が感心しない人ばかりだったら、果たしてその教えに意味があるかです。結局は信者の行いなのでしょうね。 私は池田大作氏を尊敬した事は一度もありませんが、偶々Twitterに流れてきた友岡雅弥と言う方は、会員ながら立派な方だと思いました。書いたものも読みましたが、僧侶でもこうは書けないかもしれない、と思える程信心を感じました。 大聖人様は「人の振る舞い」と言われていますが、本当にそうなのだと思います。「日蓮が慈悲広大ならば」と言われてもいます。そうした日蓮聖人の心を、我が心として生きて行く。そう言う事なんだろうと思いますね。そうであれば、人としての生き方が出来るのではないでしょうか?我々ひとりひとりの生き方が全てなのだと思います。

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wousakiさん ご回答ありがとうございます。 珍しいご意見を知恵袋で伺いました。 というのは日蓮信仰を自身の生き方と対比させつつ人の振舞いこそという日蓮の言葉を引用して生きることこそ大事とお書きになられる方は知恵袋にはほとんど存在しませんでした。 生き方の問題を信仰に求めるというのは、御利益信心になれた人にはなんとなく高尚な趣があり、おそらくその信仰に対する意識スタンスの違いは間違いなく対立や溝を生んでしまいやすいものがあります。 まさに創価学会の激動の変革期に当たる三十年ほど前、旧来の創価学会の日蓮信仰に対するスタンスの変動期になって居ったのではないかと思います。

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>今のところ、日蓮正宗さんから大御本尊の歴史的証明、正しさを証明する発言はお聞きできておりません。年を追うごとに出てくるのは、大御本尊様がニセモノらしいという話ばかり > 大御本尊様がニセモノらしいという話ばか そんな事は全然ないですよ。 文献と物的証拠がありますので、大御本尊は本物であると言えます。 ただ、大御本尊をニセとしなければ都合が悪い宗教団体がいるわけですね。 創価学会の本尊についてですが、あなたの言葉どおりに創価学会は本尊に迷ってる。 破門前の創価学会員達は日顕上人が大御本尊を書写した本尊も「功徳が出た!幸せになった!この信心は本物だ!」と歓喜してましたね。 これは、歴史的事実であり、創価学会員は認めるべきです。 日顕上人の書写本尊も創価学会員達は本尊として認めてたわけです。 時を経て、創価学会は日蓮正宗の教義を守らないとして、破門されました。 破門された途端、手のひらを返したように、日顕上人や日蓮正宗を誹謗する始末。 創価学会の道理の無さはどうかと思います。 そして、今の段階では、あなたの言うように創価学会は本尊に迷っている。 『開目抄』 「諸宗は本尊にまどえり。」 これは、邪教は本尊に迷うとの通解ですが、この言葉に創価学会はあてはまります。

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大御本尊が本物であるという私なりの論証です。 弘安2年10月の『聖人御難事』に、 「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐(ほんがい)を遂(と)げ給ふ。(中略)余は二十七年なり」 と、宗旨建立の27年目である弘安2年に出世の本懐を遂げる事を宣言してます。 この弘安2年10月付近にあらわされた御本尊を探すと、10月12日に御図顕された大御本尊様しかありません。 大御本尊様の脇書きに、 「右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆敬白、弘安二年十月十二日」 と、日付があります。 さらに『日興跡条条事』に 「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御 本尊は日目に之れを相伝す」(聖典 519頁) とありまして、給わるとは、いただくの意味ですので、大御本尊は日蓮大聖人から日興上人へ与えたことを意味します。 文献、物的証拠から大御本尊は本物であると言えます。

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創価学会員です。 お疲れ様です。 確かに、日蓮正宗創価学会の時代は、創価学会員が大御本尊の功徳の証明をしたと言っても過言ではありません。 しかし、そもそも功徳とは何なのか? 日蓮大聖人様が明確に仰られているように、 功徳とは、悪を滅する事を『功』と言い、善を生ずる事を『徳』と言うと断言なされております。 つまり、日蓮正宗の悪僧どもが芸者写真事件や買春事件、遺骨投棄事件などで司法より断罪された悪事により、その功徳は『1ミリも無くなった』と言う事になります。 特に言っておきたい事は、日蓮正宗の悪僧どもが『嫉妬』により創価学会を破門した、五逆罪の内で最も罪の重い『破和合僧』を侵したと言う点です。 日蓮正宗の悪僧どもに従う事は、『功徳』どころか、悪道に落ちる事になるのです。 よって創価学会は、日蓮正宗にある弘安2年の楠板曼荼羅(大御本尊)は、信仰の対象にしないと明確に断言しました。 私は、日蓮正宗の悪僧どもに加担する気も、悪道に落ちる気も『これっぽっちも』ありませんので、日蓮正宗にある大御本尊(楠板曼荼羅)は信仰の対象にしません。

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こんにちは回答ありがとうございます。 日蓮正宗創価学会の時代、よく言われていたのが僧俗一致でしたね。 それが創価学会の破門によって見事に僧俗不一致になってしまいました。 不一致はよくありませんね。 これがいわゆる破和合僧と言うものなんだと思います。 破和合僧を産む根源にあるものは生命に巣くう一凶、第六天の魔王でしょうか。 この第六天の魔王はどのようなところにも忍び込み人の心を支配してしまいます。 世間の人に忍び込めば俗衆増上慢、 お坊さんの中に忍び込めば道門増上慢、 権力者に忍び込んで悪事を働けば僭聖増上慢、 いわゆる三類の強敵と呼ばれているやつですね。 ですから法華経を保つのはむつかしいと言われるはずです。 なぜこうしたことが起きて来たかと言うと三類の強敵を呼び覚ますだけの信心をしてきたから、と言う事なんでしょう。