回答(11件)

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不幸に理由が要るのではなく、不幸を減らすために理由が要るのかなと… たとえばサイフを落とした時など「まあ、もとからたいして入ってなかったし…」とか、合理化(理由付け)しようとしするのがヒト。そうだ、まさに”酸っぱいぶどう”ですね^_^ …にしても言い得て妙というか、蓋し名言というか、今日は収穫ありました。 追記 幸福との対比(幸福である理由はいらない)で考えれば、「不幸である理由が要る」とも取れてしまうため、あえてケチをつけさせていただきました 。ご容赦ください。;*o*;

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どっちにも理由はいらないよ とらえかたひとつだもん

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幸福にも不幸にも、理由があると思います。。。 幸福の感じ方にも色々あるとは思いますが、 例えば、 一般の人たちは、身体的な幸福に縛られ過ぎている気がします。 毎日三度の食事が食べられて、寝る所があり、家族もいて、 それで何が不満なのか、と考える人も多いでしょう。 しかし、これは偽りの幸福かもしれないのです。 本当の幸福は、もっと精神的なものでしょうからね。 自身の魂が本当に満たされていなければ、 身体的な満足だけがあっても無意味だからです。 魂の充足=真の幸福。 だとすれば、 もっと哲学的(宗教的)な探求をして、真理や正義、本当の愛、信仰などを 手に入れなければ、魂は充足しないでしょう。 ということで、 幸福=魂の充足。 不幸=魂の空腹。 と定義できるかもしれません。 (私は、どんな宗教にも属していません)

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理由が要るというよりも、現状を把握しなくちゃ改善できないですからね。 幸福は現状肯定なのでただ享受するだけでも事足ります。そのため不幸ほどには理由を考える人は多くないってことじゃないでしょうか。

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要るか要らないか、分かりませんが、「人間は考える葦」(パスカル)と言われるように、必要不要に関係なく考えてしまうものです。 気が付いたのですが、「要る・要らない」は本人当事者にとってですね。本人の認識。他人が要る、要らないわけではなさそう。