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2020/9/14 16:57

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中国の唐王朝の荘園について質問です。

中国の唐王朝の荘園について質問です。 唐では均田制の税が重く農民が逃亡し、それを貴族が迎え入れて、その農民が持っていった土地を自分の領土にしたんですよね? そしてそれを荘園と言うんですよね? ですが貴族は政治家なんですよね? 政治家が均田制を作ったわけなんですから、貴族は自分たちが作った制度に違反するのを許していたということなんでしょうか?

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>唐では均田制の税が重く農民が逃亡し 租庸調の税だけでなく、府兵制による徴兵も大きな負担でした。 農民たちは、与えられた土地(田畑)を捨てて逃げ出しました。 そういう家を逃戸と呼びました。 https://kotobank.jp/word/%E9%80%83%E6%88%B8 >それを貴族が迎え入れて 貴族も含めた有力者の私有地に逃げ込んだ農民たちもいました。 貴族だけではありませんし、 すべての農民が有力者の私有地に逃げ込んだわけでもありません。 >その農民が持っていった土地を自分の領土にしたんですよね? これは全く違います。 逃戸とは、それこそ一文無しで夜逃げした一家のようなものです。 もともと住んでいた土地は捨てて逃げてきています。 ですから、有力者は人間だけを受け容れたのだと思ってください。 ただし、別の経緯で農民たちが捨ててきた土地を 有力者が手に入れることもあったはずです。 農民が土地を貴族に差し出したのでない、と思ってください。 また、領土という言葉を使うのもおかしいです。 領土は国家などが所有している土地のことです。 ここでは、貴族などの有力者が個人的に所有している土地です。 ですから私有地というべきです。 >そしてそれを荘園と言うんですよね? これも少し違います。 荘園は、ヨーロッパ史にも登場します。 荘園とは、広大な私有地や、その土地を経営することを示す 歴史用語です。 中国史の場合、漢代の豪族から大土地所有が始まったと 考えてください。 場合によっては、漢代の豪族が所有していた私有地(=大土地)を 荘園と呼びます。 豪族は魏晋南北朝時代に貴族に発展し、彼らの大土地は より拡大していきました。 この大土地所有に制限をかけようとしたのが、均田制という システムでした。 ただし、制限をかけているだけで、大土地所有が無くなった わけではありませんでした。 唐代の均田制にも、ルールの抜け穴がありました。 貴族などの有力者は、官人永業田を取得でき、 この土地は世襲できました。 https://kotobank.jp/word/%E5%AE%98%E4%BA%BA%E6%B0%B8%E6%A5%AD%E7%94%B0 官人永業田は、巨大な面積の土地を私有地として 与えられましたので、有力者は最初から荘園を所有していました。 唐代後期になり、均田制が崩壊すると、大土地所有が事実上 公認され、大っぴらに荘園を経営できるようになったのでした。 >貴族は政治家なんですよね? 唐の政治家とは、科挙官僚と貴族系の官僚から成り立っていました。 ですからたいていの貴族は政治家だと言ってよいです。 >政治家が均田制を作ったわけなんですから、貴族は自分たちが作った制度に違反するのを許していたということなんでしょうか? これは間違っています。 均田制というシステムを作ったのは、皇帝です。 北魏が開始し、隋や唐に受け継がれたシステムです。 均田制は、皇帝が大土地所有者である貴族の力を抑え込もう とする政策の柱でした。 貴族からすれば、全くうれしくないシステムでした。 逆に言えば、魏晋南北朝時代から隋唐にかけての中国の皇帝は それほど独裁的な権力を持っていませんでした。 皇帝は貴族たちの代表という程度でした。 皇帝の命令が絶対的という時代ではありませんでした。 だから、均田制のようなシステムを作って、 貴族の力を弱めようと努力したのでした。

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北朝発祥の制度を稲作地帯の華南で実施することに無理があったんです。 水の便が悪い土地を与えられても農民は困るし、権力者は自分が支配する土地でないと水利事業をやりません。 捨てられた土地を荘園領に組み込むかどうかは元の領主や隣接する勢力との力関係が影響します。