足利義昭が14代将軍になれなかった理由を教えてください。

足利義昭が14代将軍になれなかった理由を教えてください。 義昭は兄・義輝の死後、還俗して義秋と名乗り「左馬頭」の官位を得ました。左馬頭は次期将軍が就く官位でした。半年後、足利義栄も左馬頭の官位を得て将軍を目指しました。 最終的に朝廷の宣下は義栄に下り、14代将軍になりました。 *真面目な回答をお待ちしております。 *思い付き、テキトー回答はいりません。

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①寄寓していた朝倉義景が金銭等の支援を積極的にしなかったこと ②伊勢氏など幕臣の支持を取り付けなかったこと が理由であると考えます。 ①に関しては単に「朝廷に金を貢がなかったから~」のような抽象的な理由ではなく、もう少し具体的な理由があります。 そもそも足利義昭(と兄義輝)は父足利義晴が近衛家から正室を迎えてできた子であり、近衛家の当主前久とは従兄弟同士の関係です。 また、義輝の妻は前久の姉妹です。 このように、足利義晴、義輝と近衛家は強く結びついていました。 しかしながら、永禄の変で義輝正室である姉妹を救助したことを理由に近衛前久は義輝を殺した三好三人衆を許し、三人衆が擁立した足利義栄支持に回りました。 つまり、近衛家は足利義晴の系統から足利義維系統に乗り換えを行ったのです。 この、現役関白でもある近衛前久―足利義栄ラインが優勢である以上は朝廷での支持も取り付けられません。 そこで近衛家と政敵関係にある二条晴良を抱き込むこととなりますが、結局のところ多数派工作をするための軍資金を朝倉義景が出し渋っていたので二条晴良―足利義昭ラインは近衛前久―足利義栄ラインを突き崩せなかったのです。 ②に関しては足利義輝はかなり強権を発動し幕府の要職であった伊勢氏を追放し追い落としたりしました。 足利義栄はこれらに復権と所領の回復を約束し、幕府の保守派の支持も取り付けました。 このように足利義栄は足場固めをうまくできていたために足利義昭に一歩先んじていたのです。

ウィキペディアには朝廷が金を要求したとあります。 これは近衛前久の提案なのですか? 朝廷は上洛できない双方に対して将軍就任の要件としてとりあえず銭一万疋(百貫)の献金を求めたが、先に応じたのは義栄であった。義栄は一万疋を半分に値切り、永禄11年(1568年)2月に摂津富田において将軍宣下を受けた。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

回答ありがとうございました。

お礼日時:9/28 8:45