光武帝が天下を統一することが出来たのは、 一旦は滅亡した漢の再興を旗印としたからなのでしょうか?

光武帝が天下を統一することが出来たのは、 一旦は滅亡した漢の再興を旗印としたからなのでしょうか? 中国史上唯一、滅びた王朝の再興に成功したとのこと。

補足

なるほど、なるほど! 光武帝だけが漢を再興させようとした人物ではありませんでしたね。 ”前漢王朝というのは必ずしも絶対ではなく” ”あらたな価値を問われる別のステージ” どちら様の回答にも納得です、腑に落ちるとはこの事か!

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新の滅亡後に帝位についたのは劉秀の同族で血統が格上の更始帝・劉玄でこちらも漢王朝の後継を名乗って王朝を興しました。劉秀はこの更始帝によって兄を殺され、援軍もないまま河北平定を命じられ、孤立無援のまま大勢力を築いていた王郎と戦うことになります。劉秀は大苦戦の末に華北を平定して覇者となりますが、漢王朝の後継者であった更始帝の方は赤眉軍という農民たちの反乱によって殺されています。つまり、この時代の民衆にとって前漢王朝というのは必ずしも絶対ではなく、彼らが求めていたのは強く有能な為政者であり光武帝・劉秀は彼らが望む統一者であり得たのでしょう。 まあ、唐の太宗・李世民ですら後継者選びや高句麗征伐の失敗など、晩年は失態が目立ちますが、光武帝の治世には失態らしい失態が1つもありませんし、中国史上でも稀な優れた君主であったので、光武帝よる中国統一は必然でしょう。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

お二方とも、ありがとうございました。

お礼日時:10/2 8:32

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漢室の復興という旗印は確かに有効で、そうでなければ劉氏兄弟を賊徒の軍が擁立する理由もなかったです。 しかし、だからこそ劉氏で兵を挙げたのも彼らだけではありませんでした。 邯鄲では前漢成帝の落胤を称する劉子輿(王郎)が天子となり、それを擁立した劉林、劉楊らは父が前漢末に王でした。 梁で割拠した劉永も、梁王の子です。 これらに比べて、劉秀の家は四代さかのぼって「舂陵侯」、五代前でようやく王だった家系です。 舂陵侯の宗族のなかでも劉秀の家は庶流で、富力もありませんでした。 漢室という名分を基準にしては劉秀は不利で、河北鎮撫の最中に邯鄲の王郎が兵を挙げると、追われる身となってしまいます。 劉秀をそれでも生かしてくれたのは、挙兵以来つちかってきた仁将としての顔、昆陽で大勝した勇名に惹かれ、幾人かの賢者が支持してくれたためでした。 漢室という同種の旗を掲げていた面々には、王莽の王朝が瓦解したときから、あらたな価値を問われる別のステージがはじまっていたとみていいでしょう。

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