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項羽と劉邦や項王の最期など一連の作品を通して、項羽はなぜ劉邦に敗北したのでしょうか。なにか理由はあるのでしょうか。

項羽と劉邦や項王の最期など一連の作品を通して、項羽はなぜ劉邦に敗北したのでしょうか。なにか理由はあるのでしょうか。

回答(9件)

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生まれも挙兵時のコンデションも劉邦より良いのに負けた理由。個人的に特に大きかったと思うのは… 進軍〜撃破を繰り返すたびに敵兵を坑殺した事。「降伏する」という退路を断てば敵兵は死ぬ気で応戦します。こんな奴に負けたら(支配されたら)どうなるんだろう?と人々を不安に陥れた=自らの悪評を天下にバラまいてしまった事です。 もう一つは帝都咸陽が落ちた後の戦後処理。項羽は破壊にだけ情熱を見せて、政に関心がなく「秦の代わりに世を泰平に導く」なんて事に興味がありません。秦の中央支配を嫌悪していたからでしょう。天下を取ったのに天下を治める事は放棄してしまいます。ここは決定的だと思いますね。 咸陽の人々に必要以上に悪印象を与え、適当に王を封建して全国にバラまき、自分は国へ帰ってしまいます。それは統一以前の戦国時代に戻る事を意味しています。ここで、咸陽に留まり法による支配を進めれば漢王に封ぜられた劉邦が出てくる幕もなかったかと思いますね。

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劉邦には人材が沢山集まり、項羽は人材が出て行った事が一番です。 軍事面の功労者韓信も元々の項羽側にいました出て劉邦についています。 劉邦の一番の特徴は人を引き寄せる魅力があり県の小役人の時代から子分が沢山引き連れ 旗揚げしてからもいろんな人材が集まって漢帝国の大臣や将軍になっています。

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勝者は己を美化し、敗者を徹底的に悪党にする。 ですから作品群の人物像はあまり参考にならない。 もっと具体的に、何が勝敗を分けたか? それは最後は和平を破って後方から奇襲した卑劣な劉邦の作戦勝ちです。 その前、なぜそんなことが可能になったか。それは韓信の別働隊が中国辺境を刈り取り、楚の包囲網を構築したからです。その地域はのちに皇帝時代の劉邦自身が苦しめられるように、騎馬民の影響下にある地域であり兵は精強だった。韓信がこれらの兵を短期間で全て武力制圧したとは考えられず、要は、利を食らわせて味方に引き込んだ。 その武力背景があったため、項羽は分割統治を承諾せざるをえずに和平した。その帰り道に襲われ死んだ。 では、なぜ韓信や辺境民を含む諸民族は劉邦に従ったか。 それは、秦の功罪です。 秦は苛烈な統治で恨みを買った。しかし、その功績は、中国を初めて全土統一し、その中央集権の「魅力」を全中国人に見せつけた。 そして何よりも、数百年に及んだ諸侯の戦争を終わらせたのです。 秦は「中国の新しい世界」を提示した。 項羽はその行為から、明らかに旧態然とした貴族の思想であり、封建主義であり、懐古的です。自領にこだわり、諸侯を血縁で判断して封じた。 要するに、人間として古い。時代錯誤だったのです。 世の中はもう、項羽の頭の中にあるようなような春秋戦国の世ではなかった。 秦という大変革政権が時代を変え、もう後戻りはできなくなっていたんです。 多くの中国人が求めていたのは強権政治による戦争の抑止であり、今現在の地位の確保でした。 すでに統一と動乱を経て、周王朝の旧貴族はとうに没落、新しく台頭した者たちが実権を握り、彼らはその地位に固執した。 しかし旧態の血縁を重んずる項羽は戦国の貴族を掘り起こして大領を与える人事を繰り返し、新興勢力に嫌気と警戒感を抱かせてしまったわけです。 ですから、項羽の人気は徐々に下がっていき、最後は逆転してしまった。

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理由を列挙したいと思います。 1劉邦は宣伝上手だったから。法三章のようなよさげな政策を打ち出して良い社会を作るかのように宣伝しました。(が、実は、漢は秦の法律を殆ど継承しました。焚書の狭書令も継続しました。狭書令が廃止されたのは、劉邦の子恵帝の時でした。) 2劉邦は、恩賞を惜しまなかったから。劉邦は有能な部下への恩賞を惜しまなかったので、有能な人が劉邦の部下になりました。項籍は恩賞をケチることがあったと韓信が言っています。 3劉邦は使える者は何でも使う柔軟な人だったから。劉邦の部下は劉邦が好きな人物だけではありませんでした。項籍の部下は項籍を好きな人ばかり(項籍の親戚か妻の親戚、またはそれらのコネのない人は項籍の陣営では出世ができないと陳平が言っています。)でしたが、劉邦の部下は劉邦のことを嫌いな者もいました。君主の好き嫌いではなく、功績さえあれば公平に恩賞がもらえるので、劉邦に気に入られない人でも漢で働くことが出来ました。 4項籍が若者だったから。今の日本もその傾向がありますけど、古代中国では若いというだけで未熟者とみなされました。胡亥も若者で、「若いから馬鹿にされないかなあ。」と心配していました。若いうちは失敗も多いと思います。 5項籍に運がなかったから。自分でそう言っています「時利あらず。」と。しかし、劉邦に及ばなかっただけで、運は良かったと思います。 6項籍は、戦争下手な人が好きではなく、軽んじて殺してしまうような人だったから。 項籍は楚の義帝や韓王成をあっさり殺しています。理由は、自分で戦争をしたことがない、または戦争が得意ではない人々だったからです。逆に戦争上手な人には優しく、劉邦や韓王信などには寛大でした。 7項籍は虐殺魔だったから。漢は虐殺をしなかったようです(虐殺をせずに関中を攻略できて、その後関中の人々に大変慕われたので、その後も虐殺はしなかったと思います。史記にも漢軍が虐殺をしたという記述がありません。)。梁を攻略した後は項籍も虐殺をやめたと思いますけど、遅かった。虐殺のせいで、関中の人々に嫌われてしまいました。斉でも虐殺をして、失敗しました。 8劉邦は自分よりも有能な人も受け入れて使うことができたけど、項籍は自分よりもできる人(軍事面で)を受け入れることは出来なかった様子。それで、韓信を漢に走らせてしまいました。韓信が斉を降伏させた後、項籍が漢からの独立と同盟を持ちかけたら、あっさり蹴られてしまいました。韓信にとっても、悪い提案ではなかったと思いますけど・・・(史記ではそういう記述になっています)。しかし、韓信は虐殺しない人だったので、項籍と方針が違って、合う筈もありませんでしたが(梁攻略以降の項籍なら方針が合うかもしれませんけど、時既に遅し)。 9項籍が諦めの早い人だったから。ほう城の戦いで負けた劉邦は逃げに逃げて助かりますが、亥下の戦いで負けた項籍は、最初は逃げていたのに、烏江の亭長の勧めにも関わらず、烏江で逃げるのを止めてしまいました。その頃は、まだ会稽は漢に支配されていなかったし、烏江の亭長の言うように、王を名乗れたかもしれません。まあ、項籍は漢に負けたと思ってしまったのでしょうね。 つらつら書きました。

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劉邦は項羽と違い清濁併せ飲む大器量の持ち主だったからです‼️ ✌️。劉邦は帝王の器で、有徳の長者だったからですっ‼️ ✌️。韓信でもそれははっきりと認めていますっ❗ 。項羽が劉邦に負けたのも、仕方ないと思います~・・・ 。張良も劉邦はほとんど天授なりと言っていますからっ‼️ ✌️。劉邦の方が項羽より上だったと言う事です‼️ ✌️。