遷都直後あたりの平安京は(平安宮…大内裏部ではなく)東西北からも門を通って入京したのでしょうか?

日本史 | 建築30閲覧

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>平安京には羅城門以外に門はありません。 なるほどです、スッキリしました! >遷都直後あたりは大内裏と羅城門を結ぶ朱雀大路など主要施設以外は未完成でした。 模型を見せられるとなんとなく「あぁこうだったのかな?」と漠然に思いがちですが、言われてみれば確かにそう考えた方が自然ですね。徐々に建造物は増えたハズだし、使ってみて使い勝手が初めて分かり、トライ&エラーをくり返し続け、変化し続けるのか街ですしね。 本文中の本は機会があれば是非参考にさせて頂きます!

ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆さま有難うございました!

お礼日時:10/27 12:55

その他の回答(2件)

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>ただ、南側からの侵入は羅生門しか無いように見えるんですが… >飾り程度の羅生門と城壁があるだけで南側からもワリと自由に入れたのでしょうかね… 平安京創生館の模型ですが、実物をご覧になられましたか? 平安京創生館「平安京復元模型」 http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/souseikan/jyousetsu.html#mokei こちらのサイトで、下の方に「東寺」の画像がありますが、羅城は無くで、田畑から小さな溝を挟んですぐに九条大路があって東寺ですよね。 城壁は「羅城門の左右に、ほんのちょっとだけ」だったのです。

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>実物をご覧になられましたか? 先日まで京都にいたんですけど見逃してしまいました(汗) >田畑から小さな溝を挟んですぐに九条大路があって東寺ですよね。 リンク有難う御座いました。おっしゃる通りですね! ところで枕草子では清少納言の北門に関する記述が散見できるのですが内裏ないし大内裏の門だと言う事がわかりました。

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“羅城門”とは、中国の都城を囲む城壁(羅城)に開けた門という意味ですね。 中国では北方の異民族や農民反乱への備えから、都の周りは、分厚く高い羅城で厳重に防備されたのです。 日本は聖徳太子の当たりから、中国の制度・文物を積極的に取り入れ、その結果出来たのが“律令政府”です。 ところが基本法の“令”も、実は取捨選択して取り入れ、日本化させたモノも放り込んでいます。 ※ 取捨選択して作成した大宝令:律令制の基本の一つは、“官僚制”です。しかし中国発祥の試験採用制(科挙)は低く抑えた形で盛り込み、逆に“蔭位の制(おんいのせい)”を盛り込んで“貴族の子は貴族”となるのを制度的に保障しています。 そしてそれは、都作りに際しても同じです。 藤原京の場合、羅城門の存在自体が疑われていますし、平城京や平安京では、都の正門として羅城門は建築されていますが、どうも、都を囲む羅城はなかったと! ・・・ただ申し訳程度に、門の両側に城壁をほんの僅かだけ築いた様ですが、これは、外国の使節を迎えるための必要性からだろうと推察されています。 そんなんで、日本の都の周囲には壁はありませんので、どの方向からも出入りは自由だったのです。 またもし羅城があって、それぞれの方向に門が設けられていれば、正面の門を“羅城門”と呼ぶのは、おかしいですよね。 羅城の東西南北に設けられた門は、全てが羅城門ですから。 こんなんでどうですか(^^)/

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回答有難うござきます!日本で言うところの羅城門とは朱雀門まで続くいわゆる羅生門の事なんですが、城塞都市で無いと言う事はわかりました。ただ、南側からの侵入は羅生門しか無いように見えるんですが…飾り程度の羅生門と城壁があるだけで南側からもワリと自由に入れたのでしょうかね…ご存知ですか? 地質学者や考古学者のチームで3年近くかけて使った平安京創生館の模型ではこんな感じですが、当時は東寺の他に西寺もあったので南側は羅生門からしか入れないと考えるのはやはり不自然ですよね?

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