ベストアンサー
クリスチャンです。まぁ、一般的な日本の方とクリスチャンでは「偶像礼拝」という事象のとらえ方が全く違いますよね。 先日、父がなくなった時、弔問に訪れた人が数珠を手にして父の遺体を拝みました。わたしには(えっ、それは拝むものじゃないのに)と絶句してしまいました。なぜ多くの日本の方は何も考えずに何に対しても拝めるのだろう、と私も思います。これは、クリスチャンの私からすると、つい数日前まで生きていた人間であって、人間は手を合わせる対象ではない、ってだけです。でも多くの方は死んで仏になって手を合わせる対象になってしまう。この差をしっかりと理解しておかないと、日本ではクリスチャンは生きていけないです。親戚の家におうかがいして、仏壇にむかってクリスチャンは何をすればよいのか、という現実があるのです。 たとえば「クリスチャンも十字架に向かって拝んでる」って、よくある勘違いですよね。十字架がなくても祈ることはできるし、十字架がいつも前にあるわけではない。十字架のネックレスを常にしていて、それに手を当てて祈ってるとか、、、思い込みですね。教会によっては、教会堂の正面に十字架をおかないとこもあるわけで。これはクリスチャンが「日本人はなぜ偶像礼拝するのか」という言葉がどうしても「勘違い」に思われるのと同じではないでしょうか。つまり、お互いのこと、お互いに勘違いしたまま受け入れないでいるわけです。 まず「偶像」という聖書の言葉遣いはさけられる方が良いと思います。クリスチャンから見れば、まさに偶像ですが、拝んでいる人はそれを「偶像」とは思っていません。偶像という言葉は蔑視感を含んでいますので、できるだけ使用を控えることが望ましいです。 たとえば仏像に拝んでいる人がその先にある「みほとけ」に向かって祈っているのだ、と言っても、その方が仏像の前以外で祈ることはありません。一年に一度、朝日をみて祈るひとは多いですが、同じ太陽を日中に拝む人はいません。鏡や刀をご神体にまつっても、自宅の鏡や包丁に対して手を合わせる人はいません。 つまり祈る対象、まつる対象を、限定物に、あるいは、期間を限定する効果が「偶像」にはあるのです。それは社会生活を行ううえで、人の営み「け」と、神聖なる空間「はれ」を区別するには、とても都合の良い仕組みだからです。 キリスト教における、肉と霊の違い、と似ていますが、構造が違います。クリスチャンは自分のうちなる肉を、聖霊様の満たしによって清められることを願います。しかし、日本の伝統的な考えは、ハレとケを併存させる社会構成を作っており、どれだけケガレていても、ハレの場や衣装をまとうだけで、神聖な空間に立つことを赦される構造になっています。特にキリスト教でいう肉を消し去る必要はなく、だれでもハレの様式に従うことで清いと考えているのです。 というわけで多くの日本人はこういう構造感の中で生活をしていますので、祈る対象を特定することをしません。つまり「わたしは「いわしの頭」信者なので、いわしの頭以外に頭を下げることはしません」とは言わないのです。自分たちの生活圏に神や仏は入ってこず、神や仏は「ハレ」の領域にいる、と領域をわけているのです。ですので、その領域にいるすべてのものを拝む対象としています。それは有形であるか、無形であるか、は関係がないことに注意が必要です。 そして拝む意味もキリスト教と大きく違います。日本人の拝むは、神として賛美するではなく、「はらいたまえ」「しずめたまえ」です。拝む対象に頭をさげて、難を引き起こさず(わたしたちの生活圏から)去ってください、という意味が多分に含まれます。地鎮祭を行うとき、偶像は不要ですが、この神の領域に対し、人の営みを行うものに線を引きなおすもの、となります。 結論をまとめましょう。なぜ日本の多くの人が偶像を拝めるのか。 ・キリスト教で指す偶像と日本のものは大きな違いがある。 ・日本では特定の偶像に信仰することは少ない。 ・日本の偶像の多くは、限定されたもの、限定された期間だけ、 神聖なものとされる。 ・多くの日本の人は、普段の生活に神や仏を持ち込まない。 ・神聖な空間「ハレ」と穢れた空間「ケ」を使い分ける。 ・ハレのもの、ケのものが普段の生活圏に入らないよう祭事が行われる。 ・ハレのものを信仰しているわけではないので、 どのようなものでもハレにあると思えるものに頭を下げる。 ・頭をさげるのは決して従うという意味ではない。 それ、もう「偶像を拝む」とは違いますよね。 つまり、ご質問の「偶像を拝む」という行為は、実際はほとんどの日本人が行っていない、ということ、と私は思います。長文失礼しました。
質問者からのお礼コメント
ありがとうございました。
お礼日時:2020/11/26 1:41