邪馬台国はどこにあったんですか?奈良 九州辺り?卑弥呼は処女だった?

日本史110閲覧

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間違いなく北部九州です。 またはっきりとはしませんが魏志倭人伝の記載どおりだと卑弥呼は巫女的存在で生涯に渡って男子と交わりはなくバージンだったように思います。 魏志倭人伝は魏の後を継いだ晋の国の陳寿という人が書いた三国志の中で倭国について書かれた箇所です。 従って、その記載内容に一番相応しい遺跡が邪馬台国と言うことができます。 魏志倭人伝には邪馬台国の様子が詳しく書かれていますが、その中から邪馬台国が持っていなければならない代表的な要件を取上げると次の4つがあげられます。 ➀時代的に2世紀初頭から3世紀半ばまで存在していること ②鉄、絹、城柵などがあること ③大陸関係、特に朝鮮半島の遺物が豊富にあること ④伊都国のあった平原遺跡(玄界灘近く)から見て南になければならない これらの要件に沿ってこの時代の遺跡を見ると、近畿の遺跡で最も代表的な遺跡である奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡は当時日本列島で最大であり、大陸の影響も強く当時最先端の遺跡と言うことができます。しかし、考古学者はこの遺跡は3世紀に突然誕生したと言っています。そうなると➀の要件を満たしていないことになります。それに城柵もありません。当然④は満たしていません。 纏向以外にも近隣には唐古・鍵遺跡があり大阪には池上曽根遺跡がありますが、そこからは鉄も絹も大陸の遺物も出ておらず②と③④の要件を満たしていません。他の近畿の遺跡もこれらの要件を満たしていません。 一方、佐賀県の吉野ヶ里遺跡はこれらの4つの条件を全て満たしています。北部九州には他にもこれらの要件を満たした複数の弥生遺跡があり、邪馬台国が北部九州にあったのは間違いないと言えます。 しかし、上記の特徴以外に邪馬台国に至る旅程『水行10日陸行1月』があり、邪馬台国の場所はこの旅程に当てはまらなければいけません。この旅程は九州説には長すぎて九州内に邪馬台国を求めるのを難しくしています。一方、近畿説では方向さえ南を東に置き換えれば旅程としてはピッタリ合います。 ところが最近出版された『九州の邪馬台国vs纏向の騎馬民族』と言う本の中ではこの旅程について画期的な全く別の説を紹介しています。またこの本の著者がYouTubeに動画をアップロードしているのでそれを視聴されてもいいかと思います。本のタイトルを検索すれば出てきます。 この本は邪馬台国九州説なのですが、この旅程は纏向に至るものだと言うのです。 そのヒントは266年の倭国から晋への朝貢にあります。中国の史書にはこの時、女王・台与と共に男王が並んで爵位を得たと言う不思議な記載があります。このことは次のように考えることができます。 この時の朝貢は纏向に誕生したばかりのヤマト王権の男王の使節が卑弥呼の後を継いだ台与の使節と共に朝貢したのです。纏向の男王は邪馬台国をすでに征圧していたのですが、倭王はいまだに女王・台与のままだったからです。そして『陸行1月水行10日』かけて邪馬台国から来たと告げました。そうなると当然、晋の役人は邪馬台国まで『水行10日陸行1月』かかると勘違いします。これを役人から聞いた陳寿は魏志倭人伝に邪馬台国に至る旅程としてこの旅程を記載してしまったのです。 元々、近畿説の主体は三角縁神獣鏡が近畿を中心に多く出ていることにありました。しかし、魏志倭人伝には卑弥呼がもらった鏡が三角縁神獣鏡だったとはありませんし、最近ではこの鏡は日本製と言うことが濃厚になってきました。近畿説は大きな拠り所をすでに無くしているのです。 いまだに専門家の多くが近畿説を主張するのが私には不思議でなりません。

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2020/11/22 16:23(編集あり)

朝鮮半島南部の遺跡でよく見つかる倭人遺物は1世紀まで北部九州系が多かったのが、3世紀になると近畿系に取って代わってます。この事から朝鮮南部を属国とする倭人の技術集団or支配階級が2世紀頃、北部九州から近畿に移ったのでは無いかと考えられます。

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現時点では「有力候補地」はあるものの特定はされていませんし、特定できるような資料は見つかっていません。 考古学的には奈良周辺、文献史学的には北部九州が有力候補地です。

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邪馬台国奈良説のクニは邪馬台国北部九州と同時代に並立した倭人の国々。邪馬台国拠点は筑後川流域の高良山祇園山古墳群では。朝倉から八女辺りまで邪馬台国連合。対立戦争した南の狗奴国は熊本城南の塚原古墳群では。

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