織田が延暦寺を焼き討ち、したとき、その 火炎や煙が立ち上るのが京洛まで目撃 されたと記録にも、あるようです。

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比叡山延暦寺の公式HPの歴史の項目には、 「比叡山延暦寺の最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたと伝えていますが、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったことなどが発端となり、 元亀2年(1571)織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました。」 とあります。 つまり 『全山焼き討ちされ』という事実だけを伝えています。 しかし、あくまでも1仮説の見解ですが、 最近の研究では 「延暦寺の焼き討ちは本当に大規模だったのか?」 とも言われるようにもなっています。 近年の発掘調査では、焼き討ちの証拠であるはずの燃えた木材などの焦土がごくわずかにしか見つかっていません。 また虐殺されたという何千もの人骨も全く出土していないようです。 もちろん全山の調査ではありませんのであくまでも仮説なのですが。 比叡山全山の焼き討ちの記述は、 ・信長に仕えた太田牛一の『信長公記』 ・イエズス会士・ジマン・クラッセという人が書いた『日本西教史』 ・「言継卿記」を書いた公家の山科言継 ・代々の朝廷の女官達が書いてきた「御湯殿上日記」 などがあります。 しかし 共通しているのは皆その現場にいなかった事。 ]つまり皆伝聞に頼ったものである事。 もしかしたら少々大げさに書かれている可能性もありますよね。 また、 延暦寺の建物の焼失は信長の攻撃が初めてでは無く、 室町幕府六代将軍の「足利義教」との対立から延暦寺の僧たち焼身自殺して根本中堂と本尊さまも焼失してしまっています。 更に明応8年(1499年)、 管領である「細川政元」が延暦寺を攻めた為、再び延暦寺の根本中堂は灰燼に帰してしまいました。 また「山科言継」の日記には、 信長焼き討ちの前年の10月に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとも書かれています。 更に、 同じく信長焼き討ちの前年に比叡山を訪れた「英俊」という僧は、 延暦寺の堂坊が荒れ放題になり、わずかに根本中堂の灯明が2~3個灯っているだけ状況を目撃しています。 その彼の日記には、 「僧たちのほとんどは山下の坂本で女遊びをし、高利貸しをし、修行を怠るからこのようになった。」 と嘆いている程、焼き討ち以前に延暦寺はすでに荒れ果てていたようです。 延暦寺の建物類は信長の攻撃による消失以前にすでにかなり朽ち果ててしまっていたのかも知れませんね。 (◜०﹏०◝)

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そのことが、錯覚だったという説が近年出されています。たしかに比叡山を覆う煙が立ち込めたのが見えたと思われますが、「全山焼亡」でなかったことが発掘でわかってきました。発掘で焼け土層が発見されないところが多く、有力になってきました。確かに根本中堂等の主要伽藍は焼け落ちているので、かなりの炎と煙が覆ったと推察できます。 発掘関連の人の話では、坂本の馬借の本拠地日吉社が殲滅的に焼かれていたということです。のち秀吉は厚くこれを信仰し保護しました。