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2020/11/25 23:34

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中国の三国時代、仏教は存在しましたか?また、もし存在していたとすれば仏教は一般的に文官や武将たちなどの間で信仰されていましたか?

歴史 | 中国史29閲覧

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そうでね。先のご回答にあるように、すでに伝来しています。 笮融が揚州方面で活躍?したこともあって、呉ではそれなりに盛んでした。 ただまあ、おそらく、揚州の仏教は海のシルクロード伝いに交州から伝来したものが中心じゃないか、と思います。 たとえば孫権の太子だった孫登の教育係に支謙という仏教の僧侶がいたりします。 他にも康僧会という人が孫権の支援で寺院を立てたり、孫皓と問答したりしてます。 少し後、西晋時代が活躍の中心になりますが鳩摩羅什以前の訳経僧のビッグネームで竺法護という人がいます。だいたい三国志の著者の陳寿と同世代位の人。 西晋~東晋時代、厭世主義的な清談の流れに乗って、仏教哲学も広まっていきますが、後漢~三国時代にこうした人々が仏教経典の中国語訳を頑張ったおかげでもあります。 後漢明帝も仏教に多少の興味を示していますし、どこまでホントか洛陽の白馬寺というのがその時代に建てられた、ということになってます。後漢時代の仏教経典の翻訳の中心になっていた寺でもあります。

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仏教のことを「浮屠」とも呼びます。 https://kotobank.jp/word/%E6%B5%AE%E5%B1%A0 歴史書の『三国志』の中では、浮屠が二か所登場しています。 「呉書」孫綝伝より。 【綝意彌溢、侮慢民神、遂燒大橋頭伍子胥廟、又壞浮屠祠、斬道人。】 孫綝が、伍子胥の廟を焼いて、さらに仏教寺院(=浮屠祠)を ぶっ壊して僧侶を斬った、という逸話です。 https://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E4%BA%BA 道人は道教の道士も意味しますが、ここでは仏教の僧侶 と解釈してよいでしょう。 つまり、この記録から、呉の国には、仏僧と寺院があった ことが分かります。 呉なので、漢晋さんが先に紹介された笮融時代の寺院などと 関係があるのかもしれません。 と言っても、民間で仏教が流行していたという証拠には なりません。 他には記録がほとんどないからです。 孫綝の話でも、仏教寺院とともに、伍子胥廟を破壊していますが、 民間では、こういう英雄信仰などが一般的でした。 例えば、日本でも、平将門や楠木正成など、神として祀られています。 しかも、民間で人気のある神さまだったりします。 『三国志』に引用されている『魏略』西戎伝には、 外国の宗教としての仏教の記録があります。 【臨兒國、浮屠經云其國王生浮屠。浮屠、太子也。】 浮屠とはブッダのことです。 ブッダはシャーキア(釈迦)族の王子でしたので、 浮屠は太子のことだ、と説明してあるわけです。 【昔漢哀帝元壽元年、博士弟子景盧受大月氏王使伊存口受浮屠經曰復立者其人也。】 さらに、前漢の哀帝の時代に、大月氏王の使者が浮屠の経典を口授された という話が出てきます。 仏教がいつ中国に伝わってきたのかは、諸説あります。 『魏略』の著者・魚豢は魏の官僚でしたので、 魏では、こういう由来が伝えられていたことが分かります。 【浮屠所載與中國老子經相出入】 仏教の経典の記載には、中国の『老子』と内容が似通っている。 魏の知識人の中は、仏教の教えと、老荘思想に共通点を 見出すものがいました。 これを老子化胡説といいます。 https://kotobank.jp/word/%E8%80%81%E5%AD%90%E5%8C%96%E8%83%A1%E8%AA%AC 仏教の教えは、もともと老子が西方(インド)に行って 伝えたものだ、という珍説です。 後漢~三国時代の知識人にとって、仏教は夷狄(野蛮人)の宗教 であり、漢人が信仰すべきものではありませんでした。 しかし、内容的には惹かれるものがあったのでしょう。 そこで、仏教=老荘思想という謎の理論を持ち出して、 仏教もなかなか良いものだよ、と言い出したのでした。 >一般的に文官や武将たちなどの間で信仰されていましたか? 信仰していた人は、ほとんどいなかったと思われますが、 仏教に興味を持っていたようです。 中国で仏教が普及していったのは、五胡十六国時代からです。 この時代は、異民族(五胡)が華北で政権を打ち建てましたが、 五胡のリーダーたちは、同じく異民族の宗教ということで 仏教を積極的に保護しました。 また、相次ぐ戦乱のなか、仏教の教えは異民族だけでなく 漢人の間にも徐々に浸透していきました。