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2020/11/26 8:19

77回答

某キリスト教団体が、 宇宙は精巧な法則に従って運行している→精巧な製作物には必ず製作者がいる→宇宙には創造者がいる

補足

私見によれば、神の存在が偶然でないとすると、何かの意志により存在するようになったか、神自らが自己の存在を意図したと考えることになります。すなわち、神が「唯一絶対的な存在」であるとすると、何らかの意志が「神を唯一絶対的な存在」にすることを意図したか、神自らが自らが存在する前に「自らが唯一絶対的な存在」として存在するように意図したということになります。しかし、存在しない者が「自ら唯一絶対的な存在」になることを意図するのは背理・非論理的ですから、神以外の存在が神が「唯一絶対的な存在」になることを意図したというのが合理的です。一方、神が他者の意志に関わらず偶然に存在するようになったとすると、偶然の事象は再度起きる可能性があり、他の神の存在の可能性を否定できません。聖書中で「神を唯一絶対的な存在」としている場合、他の中東地方の偶像崇拝の神と比較して、そう言っているので、宇宙レベルの比較ではありません。そこで、神が「唯一絶対的な存在」であるというのは、一つの創造界における創造者と被造物との関係において、創造者を絶対視させるための「割り切り」だと考えます。

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ベストアンサー

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質問者

2020/11/26 12:13

ありがとうございました。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

回答ありがとうございました。

お礼日時:2020/11/26 19:03

その他の回答(6件)

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「神は最も偉大で精巧な存在だ→神には創造者がいるという論法にならないでしょうか?」 >ならない。一番トップの創造者が神だから。 「神の存在は偶然の結果だ→偶然の結果存在するようになった神は他にもある可能性がある。という論法は成立しませんか?」 >しません。神の存在は偶然ではないから。

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質問者

2020/11/26 19:00

偶然でないとすると、存在しない時に神自らが意図したか、他者の意図に基づいていることになります。

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はい、そういう図々しいキリスト教団は、プロテスタントの福音派などの名称を持つ聖書原理主義者の集団です。 図々しいでしょ、キリスト教なら聖書に書いてあることを主張するなら許されるが、書いてもないことーー宇宙を作ったーーのがキリスト教の神のわざだと持っていってしまうのだから、図々しい。 旧約聖書の冒頭には、神が天と地を創ったと書いている。そして「星を造った」(創世記1:16)と書いてあるだけで「精巧な法則に従って運行」させたなどとは書いてない。 聖書に書いてないひとの成果を自分とこの神のものに持ってってしまうキリスト教福音派は図々しいというより、窃盗をしていると言える。

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質問者

2020/11/26 18:33

なかなか興味深い議論です。ありがとうございました。

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「神には創造者がいる」。 その通りです、神の言葉である聖書に、父なる神と独り子の神が記されていて、独り子の神が万物を形造った神であると記されています。 つまり、万物の神は、万物の基の霊である霊そのものである父なる神が生み出した最初の神と言う事です。 更に聖書には、人は最初に生まれた独り子の神の花嫁となることで、独り子の神の丈にまで達する神の子達として完成されることも記されています。

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質問者

2020/11/26 12:08

回答ありがとうございました。

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仰る通りだと思います。 神と認識する存在がいて「神」になる訳で、神を作った「超神」を認識する存在がいれば超神の誕生です。 宇宙が出来たのは偶然で、その偶然に理由を付けているだけかも知れません、また高度な知性を持つ存在が創造したのかも知れません。 誰も分かりません。

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質問者

2020/11/26 12:09

回答ありがとうございました。

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アナロジーは証明にはなりません。 アナロジーは説明の手段ですが、証明の手段ではありません。 たとえば、雪を見たことのない人に雪の白さを説明するのに 砂糖の例を持ち出すようなもので、 そのことによって出来るのは、 雪の白さを[説明]することだけであって、 雪が白いことを[証明]することはできません。 人間と人工物の関係の例を持ち出すことによって出来るのは、 想定された神と宇宙との関係を[説明]することだけであって、 宇宙に創造主があることを[証明]することはできません。 つまり、アナロジーによるものは証明ではなく、 既に神がいると信じている人が 神のことをどのような存在として想定しているかを 説明してくれる手助けをするにすぎません。 そして、 もし、人間と人工物の関係から神と宇宙との関係を知ることができる と仮定すると、 例えば、 全ての人工物を作った人間は物質的肉体を持っているので、 宇宙を作った神も物質的肉体を持っているに違いない となります。 複雑な人工物は複数の制作者たちが協力して作るので、 複雑な宇宙も複数の創造者が協力して造ったに違いない となります。 人工物は全て既に存在しているものに手を加えるだけで 人間は創造者ではありませんから、 神も既に存在しているものに手を加えただけであり創造者ではない となります。 人工物には人間の不完全性による失敗作がみられ、 また自然物や人間にも不完全性が見られるから、 神も不完全である となります。 このように、 人間と人工物の関係から神と宇宙との関係を知ることができる と仮定すると、色々と都合の悪いことも出てきます。 これは、アナロジーが、 ある前提からある結論を導出する証明の道具ではなく、 あるものを例として他のものを説明しようと試みる 説明の道具に過ぎないため起こる欠陥です。 人工物か自然物かを決めるのは、 自然の働き(物質の性質や物質の相互作用)によるものか、 それとも、 人間の手が加えられたかを区別することによる からです。 つまり、ある物を見て、 それが人工物か自然物かの判断できるのは、 その判断をする前に、 人間の創作活動と自然の働きの区別を知っているからです。 区別を知っていて はじめて わたしたちは区別の判断をすることができます。 黒と白の区別を知っていなければ、 あるものを見て、それが黒か白かの判断はできません。 もし、わたしたちが、 神の創作活動も神の働きによらない存在物も知らず、 よって、 神意によって創造あらしめられたものと 神意によらないで存在するもの との区別を知らないとしたら、 わたしたちは、ものを見て、 それが神意によるか否かを判断することはできません。 このように、 人格的存在をはじめに知っていなければ出来ない判断 (存在物に人格的存在の意図を認めること)を理由にして、 人格的存在を証明するというのは、 この種の主張(伝統的に「デザイン論」と呼ばれる)は 一種の循環論に陥っているのです。 これから証明すべきことが、 証明の理由の前提として使用されているのです。 以上のように、 「繊細な精度を有するものに対しての考察すること」 などによっては、 神の存在を証明することは出来ないことがわかると思います。 神の存在は「客観的推論」からたどり着いた結論ではなく、 昔も今も、主観的な思い込みから想定されたものに過ぎません。

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質問者

2020/11/26 12:13

非常に学術的・哲学的回答をありがとうございました。