明智光秀で質問します。光秀はいつ頃から筒井順慶を支援して松永久秀に対抗させたのですか?
明智光秀で質問します。光秀はいつ頃から筒井順慶を支援して松永久秀に対抗させたのですか? <ウィキペディアの記述> 元亀2年(1571年)になると久秀は武田信玄と通じたうえに、篠原長房や摂津の荒木村重と結び、同年6月から8月にかけて、足利義昭方の畠山秋高や和田惟長の居城を攻めている。これに対し足利義昭は筒井順慶に接近し、九条家の娘を養女として順慶に嫁がせている。 <私の疑問点> これをきっかけに光秀も順慶を支援するようになったのですか? それ以前から、支援していたような記録は残っていますか? <こんな回答はご遠慮ください> おふざけ、ヘイト、ただの感想。 俺は知らん、○○の本で調べろ。 他人のHPを張り付けて「これを読め」
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ベストアンサー
当時、つまり元亀年間の明智光秀は、足利義昭の幕臣でもあり、織田信長の家臣でもありました。そして、光秀が正式に大名になったのは比叡山焼討ちの後に信長から近江坂本を与えられた1571年末です。 つまり、それ以前の光秀は単なる幕臣で、筒井を支援するだけの力はありません。そもそも筒井は、松永との対抗上から三好三人衆や三好義継らと組んでいたので、義昭と敵対していた時期もあります。 光秀が確実に筒井を支援したのは、1580年の大和検地です。滝川一益と光秀が共同で検地奉行を務め、かなり地元勢力に厳しい検地をしたと多聞院日記にはあります。 筒井順慶の養嗣子定次に、光秀の娘が嫁いだとする説もありますが、このあたりは良く分かりません。また、畿内は佐久間信盛が失脚するまでは佐久間が差配してましたから、やはり佐久間失脚前後からではないでしょうか。
<これは知っています> 信長包囲網が破れると松永久秀は織田信長に降伏して家臣になりました。それまで久秀は足利義昭の直臣でしたが、佐久間信盛の与力になりました。多門山城を差し出して筒井順慶と和睦しました。一方の筒井順慶も信長に服属し、明智光秀の与力になりました。 <私の疑問点> これ以降、光秀と筒井順慶は親密になったのですか? 信長の命で筒井順慶が光秀の配下になったのは「たまたま」ですか? ■このあたりがよく分りません。 *回答ありがとうございました。
質問者からのお礼コメント
回答ありがとうございました。 自分なりに調べなおして再質問してみます。
お礼日時:2020/11/30 10:21