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古代(律令前後)~近代までの神道に関する制度と思想の流れを簡単に教えて下さい。

matsuhiro6295さん

2009/3/215:34:54

古代(律令前後)~近代までの神道に関する制度と思想の流れを簡単に教えて下さい。

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zero21keiさん

2009/3/218:06:50

神道は古代においては仏教伝来以後、急速に広まる「仏教」のなかに取り込まれる形で「本地垂迹」という考えのもと、神と仏が合わさる「神仏習合」をしていきます。

中世においては、「伊勢神道」いわゆる「お伊勢参り」などが盛んになりますが、基本的には仏と神は同じというのが風土的に合うようで、その後も神仏習合が続きます。
近世となると、江戸期において「国学」とくに平田篤胤の「復古神道」が盛んになり日本古来の神々が学問的見地から見直されるようになり、その流れの一部は幕末の「尊皇攘夷」思想に影響を与えていきます。

そして、近代の明治維新により、王政復古が行われると、宗教にも大きな影響がでます。
明治政府は「天皇」の祖である「天照大神」などの日本の神々をより明確にするため本地垂迹を廃して「神仏分離令」と呼ばれる諸政策を実施します。
この「神仏分離」の流れが全国的に広まると、民間の中から仏教を否定するいわゆる「廃仏毀釈」運動がおこり、仏像などの破壊が民間運動として広まってしまいます。

というのが非常に大雑把な流れです。
それぞれ解らない事、もっと詳しく知りたい事があれば、ご自身でお調べになるか、新たな質問をすると良いと思います。

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aburaito1さん

2009/3/218:05:21

701年(大宝1)に制定された大宝令(たいほうりょう)に、最高の国政機関として、太政官(だいじょうかん)・神祇官が置かれ、その神祇官の長官の伯(はく)が神祇祭祀、また祝部(はふりべ)・神戸(かんべ)の戸籍を管理し、神祇行政の大綱を総攬(そうらん)した。また、この大宝令で、天皇御代(みよ)始めの大嘗祭(おおにえのまつり)を大祀、祈年(としごい)・月次(つきなみ)・神嘗(かんなめ)・新嘗(にいなめ)祭は中祀、その他はすべて小祀というように祭祀の区分をし、全国神社にも等差をつけ、なかの有力社を神祇官が保管する官社帳に登録し、祈年・新嘗祭に奉幣することなどを定めた。この大宝令にみられる神祇制度の基礎は、天武天皇の飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令にすでに定められていたものとみられるが、このように律令体制の整備とともに、神祇制度も整備され、神社祭祀もしだいに定例化、国家化され、神社が国家と結び付くようになった。また一方で、8世紀には仏教が興隆するとともに、それと調和することも生じた。仏教全盛の聖武(しょうむ)天皇のとき、国ごとに国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(にじ)が建立され、都には東大寺に大仏が鋳造されることとなったが、その大仏鋳造は容易のことではなかった。そのとき宇佐八幡(うさはちまん)の「我天神地祇を率いいざないて必ず成し奉(まつら)む」と託宣があったことが『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されているように、仏像鋳造に神が協力との信仰も生じていたのである。また各地神社に神宮寺が建立されたのも、そのころである。その理由について、『藤原家伝』武智麻呂(むちまろ)伝のなかに、気比神(けひのかみ)が武智麻呂の夢のなかに現れ、「わがために寺を造り、わが願いを助けなせ。われ宿業(しゅくごう)により神たることもとより久し。今仏道に帰依(きえ)し、福業を修行せんと欲すれども、因縁を得ず、故(ゆえ)に来りこれを告ぐ」とある。これよりすると、8世紀末から9世紀ころにかけて、仏は神よりはるか優位に位置し、神は人よりは上位に位置する。やがて10世紀後半、律令体制が緩むとともに、神祇制度も乱れ、幣帛(へいはく)も滞り、都周辺のわずかの社にのみ奉幣されることとなった。それも、始めはその社が一定していなかったが天台神道、またの名山王(さんのう)神道も説かれ、さらには院政期に末法(まっぽう)思想の流行とともに、浄土信仰・観音(かんのん)信仰と結び付いた熊野本宮・新宮・那智(なち)の三山が熊野信仰を生み出した。 そして源頼朝(よりとも)は1180年(治承4)挙兵以後、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)、伊豆(いず)・箱根権現(はこねごんげん)、三嶋(みしま)大社を崇敬するとともに、伊勢の神宮にも特別の崇敬心をみせた。頼朝の崇敬は単に心意的なものだけでなく、その社領の確保安堵を図り、社殿修復また造営に心がけ、祭儀が式目(しきもく)どおりに行われることを願い、その実践に努めたが、これが鎌倉幕府の神社対策の根本となり、1232年(貞永1)制定の御成敗(ごせいばい)式目でも、その第一条に「神社を修理し、祭祀を専(もっぱ)らにすべきこと」と掲げられた。かくて、この中世前半、鎌倉幕府の時代には諸社はおよそ安定し、庶民もよく崇敬した。近世では戦国の争乱のあと、織田信長・豊臣(とよとみ)秀吉、ともに神社の復興にあたり、徳川家康もそれを継承した。この期は幕府の文治政策、諸藩の学問奨励政策もあり、また泰平(たいへい)の世で神道研究も盛んになされ、吉田神道のほかに儒家神道、吉川(よしかわ)神道が出現、伊勢神道が復興した一方で、垂加(すいか)神道、復古神道が生じ、これが通俗平易な語で一般の教化にあたった。各神社も幕府・諸藩によりその神領は寄進という形で安堵されたが、上代・中世に比べるときわめて狭小となっており、やむをえず庶民に近づき、庶民もよくその崇敬社を信仰し、支えたのである。 やがて大政奉還、王政復古とともに、明治新政府はその政治理念を復古神道思想に置いて、祭政一致の精神で事にあたろうとした。1869年(明治2)神祇官を復興し、翌年1月天神地祇、八神および皇霊を神祇官に祭り、新しく任命した宣教使をして大教(たいきょう)を宣布させることとし、その10月には官社以下の制を定めることをした。1940年(昭和15)内務省神社局にかわり、神祇院が設けられたが、45年(昭和20)太平洋戦争の敗戦とともに、国家機関としての神祇院は廃止され、翌年2月、全国神社の包括団体として神社本庁が、政府の手を離れて組織され、現在大半の神社がその包括下にある。

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