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現在、女性の間で戦国武将がちょっとしたブームになっていますが、さて戦国時代の...

ジェーソン古代さん

2009/3/217:33:54

現在、女性の間で戦国武将がちょっとしたブームになっていますが、さて戦国時代の女性で男顔負けの活躍をした女傑を挙げるとしたら誰を思い浮かべますか。

たとえば夫に代わって領国を治めたとか、武将達の争いを仲裁をしたなどです。

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sou********さん

2009/3/220:52:29

あの時代は男でも女でもバイタリティーがあった時代なので、女性の方々でもかなり政治的影響力を及ぼした方は大勢います。

女傑ならこのくらいでしょうか?


・島津常盤(島津四兄弟の大祖母)
島津分家の新納是久の娘、島津善久の妻で善久死後の伊作島津家を自ら鼓舞して守り抜き、「薩摩の大柱石」と謳われ四兄弟の祖父である島津忠良を産んだ女傑。

・伊達義姫(伊達政宗の母、最上義光の妹)
1578年上山城主・上山満兼が彼女の夫・輝宗と連合し兄・義光を攻めた際、兄の危険を察した義姫は、駕籠で陣中を突っ切り夫の元へ馳せ参じ「何故このように情けない兄弟喧嘩をなさるのか」と輝宗に訴え撤兵させた。
1588年の大崎合戦では、政宗が義光によって包囲され危機的な状況に陥った際、義姫が戦場に輿で乗り込んで両軍の中央に居座って両軍の停戦を促した。義光は諸大名の手前和睦は屈辱と感じたが、無下に妹の頼みを断ることが出来ず、80日ほど休戦ののちに両者は和睦。後に義光は伊達・大崎間の調停に努めた際、義光が義姫に間を取り持つよう依頼した書状が残されており、義姫が兄から深く信頼され、伊達家においても発言権があったかがわかる。あだ名は奥州の鬼姫。

・立花誾千代(ぎんちよ) (立花道雪の娘で道雪養子の宗茂の妻)
元来嫡男のいなかった道雪の跡取りとして娘ながらにして城主として育てられ武芸も優れていた。父の養子で夫となった宗茂には何かと反発する事が多く、居城立花城の「女城主」としての立場は決して崩さなかった。
宗茂が不在の間、城の守りは誾千代が任せられており、侍女たちとともに武装し、敵からの攻撃に備えていた。 宗茂が朝鮮出兵で不在の間、秀吉は誾千代を言葉巧みに誘惑しようとしたが、誾千代はお付きの女中に鉄砲で護衛させ、自らも完全兵装で乗り込んだ為、恐れをなした秀吉は手も足も出なかった。宗茂が関ヶ原の戦いで敗北した際には、居館から甲冑を着て出撃、攻め寄せる東軍を威嚇したと、武勇伝に暇がなく、猛将連の九州の妻女達の中でも随一の女傑。

・福島正則妻(名は不明)
かなりの恐正室で、女性問題で嫉妬に狂ったあげく夫であった蛮勇福島正則に長刀で斬りつけて追いかけまくった事もあると言う正真正銘の鬼嫁。

・慶誾尼(竜造寺隆信母)
後に佐賀藩主となる鍋島直茂の器量にほれ込んで直茂父の鍋島清房の後妻になり、隆信と直茂を義兄弟(実際には既に従兄弟同士だった)とし、直茂を隆信の忠実な家臣になるよう推挙。今山の合戦では寡兵にて大友の大軍を相手に四面楚歌に追い込まれた隆信の尻を叩いて直茂の夜襲策を獲らせ、勝利に導かせた肝っ玉母さん。

まだまだいると思いますが、とりあえずこんだけ抜き出してみました。今も昔も女性は強いものです…おおこわ…(^^ゞ。

質問した人からのコメント

2009/3/6 21:23:12

成功 ご回答をしていただいた方有難うございました。大変参考になりました。回答された方は紹介されていらっしゃらなかったのですが、寿桂尼(今川氏親の妻・今川義元の母)はどうでしょうか。女戦国大名と呼ばれたスーパー母ちゃんです。

ベストアンサー以外の回答

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nor********さん

2009/3/414:34:00

私も大友家重臣立花(戸次)道雪の娘誾千代だと思います。彼女は名将立花宗茂の正室ですが、婚姻前に彼女は正式に父親より家督を譲られ立花山城主となっています。当時としては正式な女性城主は相当稀有なケースですが、かなりの美人であったと伝わると同時に男勝りな激しい性格だったようです。また関ヶ原の戦いでは既に夫宗茂とは不仲だったにも関わらず立花の家を守るために陣を構え、あの加藤清正も親交深かった宗茂への配慮もあるかとは思われますが、「恐ろしい女城主のいる道は避けよう」と彼女が陣を構える道をわざわざ避けて進軍したという話も残っています。

cla********さん

編集あり2009/3/512:59:00

>たとえば夫に代わって領国を治めたとか、武将達の争いを仲裁をしたなどです。

それでは、たとえ話以外で四人挙げてみますね。

まず一人目は、先日、日本TV系列の番組で再現ドラマが放送されました、豊後国鶴ヶ崎城の城代、『吉岡妙林尼(みょうりんに)』です。
妙林尼は、大友宗麟の家臣・吉岡徳増の母とも祖母とも伝わっていますが、詳しい年齢はわかっていません。

天正十四(1586)年十一月に、城主の留守中に攻めよせた島津軍三千人を相手に、女子供と百姓兵主体のわずか三百人の手勢を率い、なんと十六度も撃退したそうです。
最後は、兵糧弾薬も尽き、島津軍に降伏しましたが、その武勇知略に感じいった島津方の武将たちに丁重に扱われ、落城前と変わらぬ暮らしをおくったうえに、自ら感謝の意を込めて、宴席を催しては島津方の武将たちをもてなしたそうです。

やがて年が明けると、豊臣秀吉の九州征伐の話をもちあがり、それを聞いた島津軍が薩摩へと撤退することになると、妙林尼は、薩摩に一緒に連れて行ってほしいと懇願して、門出の祝いとばかりに酒宴を設け、兵卒たちにも酒を振舞ったそうです。
ほろ酔い加減で国へ向かう島津軍でしたが、そこへ突如、伏兵が襲いかかりました。

じつは、今までのことはすべて島津方を油断させる為の、妙林尼の一世一代の大芝居でした。
この不意打ちで、島津方の主だった武将たちは討ち死にし、島津軍はちりじりになって逃げ帰ったそうです。

この戦いを知った秀吉が彼女に恩賞を与えようとしても、妙林尼は固辞して受け取らなかったという事ですが、戦いに勝ったとはいえ、騙し騙される戦国の世にむなしさを感じていたのかもしれません…。


次に、瀬戸内海の女傑としてその名を後世に残している、『鶴姫(つるひめ)』という同じ名前の二人を挙げます。

備前国常山城主・上野高徳の夫人だった鶴姫は、幼少の頃より父親から太刀・薙刀・槍術・馬術などの武芸全般を学んでいて、男顔負けの腕前でした。

ところが、天正三(1575)年に毛利氏の大軍に包囲されてしまいました。
そして、とうとう落城の時を迎え、夫と共に自害しようとしたその時、
「憎い敵を討たずに、このまま自害できるものか!」
と絶叫した鶴姫は、家宝の刀を腰に差し、薙刀片手に敵中に斬り込んで、攻め手の敵大将に一騎打ちを挑んだそうです。
「姫様だけ死なしてはならぬ!」
とばかりに彼女のあとを追った侍女衆34人の中には、なんと赤ん坊を背負った女性や腰の曲がった老女もいたそうです。

彼女たちの奮戦むなしく常山城は落城してしまい、鶴姫は腰の宝刀を敵方の大将に預けると夫とともに自害したそうですが、その死に顔は、きっと安らかだったのに違いありません…。

現在、彼女は、岡山県玉野市のかつて瀬戸内海に面していた居城跡に、夫と一族、そして彼女に最後まで付き従った侍女34人とともに静かに眠っています。


もう一人の鶴姫は、伊予国大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)の大宮司で、河野水軍の一族である大祝安用(おおほふり やすもち)の娘として生まれ、その武芸ぶりゆえに『三島明神の再来』とまで呼ばれる女傑でした。

当時、周防の大内氏の勢力が瀬戸内にまで伸びていて、彼女の居た大三島も度々襲われたそうですが、そんな天文十(1541)年の合戦で兄の安房が戦死したため、代わりに鶴姫が采配を振るって見事に大内勢を撃退したそうです。
彼女の武勇伝の中には、遊女に姿を変えて敵船に乗り込み、油断した敵将を抱くふりをして刺し殺したという、勇ましい逸話も残っています。

しかし、二年後の大内氏重臣・陶晴賢(すえ はるかた)率いる大軍勢との戦いで大敗北をし、最愛の恋人を失った鶴姫は、その後、無謀とも思える戦いを仕掛けたあと、
「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」
という時世を残して、一人海に漕ぎ出したまま帰らなかったそうです…。

そんな彼女が着用したという鎧、『紺糸裾素懸威胴丸(こんいとすそすがけおどしどうまる)』が、愛媛県大三島の大山祇神社に唯一現存する女性着用鎧として展示されています。
その胸は膨らんで、腰は細く、すそはまるでスリット入りのスカートのように見えました。

余談ですが、かつて日本TV系列で、後藤久美子主演でドラマ化もされていますよ。


最後に、伊勢国安濃津城主・富田信高夫人(宇喜多直家の弟・忠家の娘で名前不詳)ですね。

関ヶ原の戦いの前哨戦である、安濃津城を巡る攻防戦で、夫の討ち死にの報(実は誤報だった)を聞いた彼女は、ともに死なんとばかりに、緋縅の鎧に半月打ちの兜をかぶり、片鎌の槍を手に馬上勇ましく、敵勢に打って出たそうです。

そのあでやかな姿は、江戸時代から明治時代までとにかく人気が高く、何度も戦記や歴史物に取り上げられたり、錦絵にも描かれていて、明治天皇の命で著された書物にもその活躍ぶりが書かれていますね。

uri********さん

2009/3/316:04:30

甲斐姫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E5%A7%AB
自ら兵を率い、寡兵で真田親子セットを撃退
祖母の妙印尼もとんでもない逸話持ちの女傑。

小松姫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%A7%AB
真田信之の妻にして、あの本多平八郎の娘。
昌幸を追い返した逸話は有名。
徳川の世になっても、外様の身でありながら実家を叱り飛ばす豪胆振りを見せてます。
というか、やりすぎ。

お船
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%88%B9%E3%81%AE%E6%96%B9
兼続亡き後はほとんど上杉家老
江戸期を通して数人しか居ない女性の自領持ち。

meg********さん

2009/3/220:55:15

その女性に人気のゲームにも登場しますが、九州の立花ギン(門構えの中に『言』)千代などは婿養子を取って家を存続させる一方で、自らが家督を継いで女性当主になりました。一説には戦場にも立ったということで(本当かどうかはともかく)、女傑として有名です。

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