歴史は全く分からないのですが、明智光秀が農民に落ち武者狩りで殺されたみたいですが、逃げた城からどのくらいの距離なんですか?

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戦が有ると、周辺の住人は落ち武者刈りが義務付けられていたんです。 要するに、逃げてくるのを待ち構えているんです。 光秀は敗走後、勝龍寺で籠城をします。 秀吉は、落ち武者刈りで待ち構えているところにわざと逃がしたんじゃないかという説もあります。

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明智光秀が一揆勢に殺害された場所は当時の史料でも複数あります。 『兼見卿記』『金井文書』に依ると、「京都郊外小栗栖村の土民に殺害される」となります。 『蓮成院記録』では、「上ノ醍醐で生害」。 そして、再度『兼見卿記』では、吉田兼治が織田信孝の陣中で得た情報として「京都醍醐周辺にて一揆に討ち取られたこと、光秀の首級は村井清三が信孝のもとへ持参した」。 『言経卿記』でも、「京都醍醐周辺に牢籠していたが郷人一揆により殺害」。 『日々記』では、「勧修寺家領某所の百姓が明智光秀の首級を織田信孝・羽柴秀吉のもとへ届け出た」。 上記のように、一番多いのが「醍醐周辺」となりますが、『信長公記』の別本と言われる織田裕美子氏所蔵の自筆本『太田牛一旧記』では「小栗栖」となっています。 山崎の戦い後に逃げ込んだのが勝竜寺城ですから、そこからの距離計算となります。 なお、緊急事態でしたので農民の衣装は手に入らなかったのだと思います。

明智光秀は山崎の戦いで敗れると、勝竜寺城に逃げ込みます。 そして、夜半に雨中にそこを脱出して、坂本城を目指したとされています。

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よく勘違いされてる人が多いですが、あの頃の農民は武士同様戦えましたし、兵士と兼用してる人が多かったです 落武者狩りという奴で、戦に負けた陣営は落武者狩りが恐ろしかったものです 明智光秀も敗戦後になんとか逃げてるところを大勢に襲われたらしいので、逃げるのは無理です この時代に徳川家康も明智光秀の本能寺の変のせいで急いで三河に帰らなければならなくなりましたが、獣道を熟知しており、また腕のある武将達を率いていたのでなんとか逃げ切る事ができました。お金もありましたしね

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家康の伊賀越えには服部半蔵がついてたから可能だったわけでそれにあたる人がいなかったら無理。

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当時は、武装していない大人はいません。 農民も、商人も、公家も戦いました。武士との違いは、武士は戦いが職業というだけです。 明智光秀が死んだのは一応、「落ち武者狩り」でしたが、それは戦争があったから、待ち構えていたんです。農民に化けていても「よそ者」として捕まりますし、抵抗すれば殺されます。

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