織田信長が明智光秀に襲われたとき近くに天皇?か皇子がいたらしんですけど 人質にしたら信長は助かりましたか?

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織田信忠は皇子の住む御所で手勢 あつめて籠城しました。 皇子が住む屋敷だと知らなかった では通らないので織田信忠は 皇子が、まきこまれるのを承知で 、そこを拠点に戦ったのは明らかで 、誰かが仲介し交渉して皇子に 、そこから退去して、いただき 織田信忠の手勢と明智軍は再交戦 した模様でした。織田信忠が 皇子を人質にしようとしたのか? 明智軍は皇子が人質になったら、 どうする心算だったのかは、 不明です。

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織田信長が泊った本能寺は、北が六角路、南が四条坊門路、西が油小路、東が西洞院路という位置にあり、東西南北がそれぞれ約120mという規模でした。 そして、信忠が居た妙覚寺はそこから北東に直線距離で約600m、道に沿って進むと約1㎞という位置にあり、寺の敷地規模としては本能寺の2倍の大きさがありました。 信忠が立て籠ったのは、織田信長が自分の京都での宿所として建てたもので、それを皇太子である誠仁親王に譲り、二条御新造と呼ばれていました。 その二条御新造は、妙覚寺から東に通り一つ隔てた位置にありました。 そこでの、信忠と明智軍とのやり取りの記録は日本の史料には残っていません。 本能寺から東に一街区離れた位置に南蛮寺(イエズス会の教会)がありました。 それは、このイエズス会の史料に残っています。 村井貞勝の勧めによって明智軍に使者を送り、「如何に処することが望みか、また御子(誠仁親王)も同様に切腹すべきか」と問います。 すると、明智の答えは、「御子(誠仁親王)に何も求めもしないが、信長の世子(信忠)を逃がさぬため、馬にも、また駕籠にも乗らず即刻、邸から出るように」でした。 その為、誠仁親王御一家は歩いて二条御新造から退出されました。 この事は、公家:勧修寺晴豊の日記『日々記』や吉田兼見の日記『兼見卿記』で補完されます。 御一家は、その為、正親町天皇が住まわれていた禁裏御所南の新在家に住む連歌師:里村紹巴が急遽用意した粗末な「荷輿」に乗って禁裏まで避難されました。

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人質は言葉が悪いので保護かな アリも漏らさぬ明智の包囲網を突破して、幾ばくかの兵で皇家を保護すれば、明智は逆賊なので味方するものは居なくなったかもね