1・よく比較される、田沼意次と松平定知は、実際は、どっちが悪人ですか? 2・二人の功績は、何ですか?

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1・よく比較される、田沼意次と松平定知は、実際は、どっちが悪人ですか? 田沼意次です。 田沼の政治は幕府のみが得をし、損を他に押し付ける政治でした。 公共事業は削減し、そのくせ税は前より多く作り、商人に特権や独占権を与え間接的にさらに庶民からむしり取りました。しかも、無秩序にやった結果、庶民どころか幕府にも益がないケースすらありました。 これらのことを繰り返した結果、政府としての武士や庶民を守るという義務を怠り大量の死者を出した末に止めに起こったのが天明の大飢饉です。 吉宗の時代、享保の大飢饉の際には全国の城米を凶作となった西国にすぐさま搬送し、さらに豊作であった東北の米を買い上げて大坂に送るなど、幕府領・藩領関係なく、被害を受けた西国一円に適切な処置を素早くとり、天明の大飢饉ほどの被害はおこりませんでした。このとき西国に幕府が送った米の総量は27万5525石。そして被害を受けた藩に対しては多額の拝借金を与えて救っています。しかし天明の大飢饉では幕府は田沼は動きませんでした。 幕府領での不作によって年貢収納は激減している為として、非常時の援助金である拝借金をほとんど認めず。天明3,4年の飢饉における拝借金は6大名1万90000両余りに過ぎず、吉宗時代、享保の大飢饉の際の総計33万9140両の金額と大きな差がありました。また、享保の大飢饉の時と違い、天明の大飢饉の際は幕府は東北に対しまったく米を送ることはなかったのです。 理由は簡単です。幕府自身が自身の領内や譜代大名の城などに蓄えておくはずの城米・郷倉米を、ほとんど蓄えていなかったのです。諸国の城に蓄えられた米や郷毎の郷蔵に蓄え置かれた米が、「役に立たない」という理由で備蓄の規模が大きく縮小され、江戸浅草の御蔵での米備蓄は廃止されていましたからです。そのため、東北諸藩からの飢餓輸出を受けていたにもかかわらず江戸の米価急騰は止まらなかったために、東北へ救援を送るどころか、むしろ江戸に米を搔き集める政策を行なうなど飢餓輸出への対策どころか助長するような行動をとり続けます。 これらの田沼政権の失策からの人災の結果、数十万人の死者が発生し、農民の離散により当時の農業人口が140万人も減少することとなりました。 これらの被害をみればどう見ても田沼の方が悪政です。 松平定信の政治が重農主義といわれますが、そのような内容になったのは寛政の改革の六年の間にその天明の大飢饉の傷跡への対応と今後の対策をしなければならなかった上での当然の対応だったのです。 飢餓に備えて各藩で「社倉」「義倉」に穀物を備蓄し、インフラ整備などのために町で積み立てる救済基金ともいえる「七分積金」を江戸の各町に対して命じて作り、さらに、治安対策のために、地元を追放された無宿人や浮浪者を一か所に集め、石川島にて大工や米つきの訓練をする「人足寄場」、またまた、天明の大飢饉からの回復を目指したのか人口増加政策を行い、間引きの禁止、児童手当の支給を実施し、1790年には二人目の子供の養育に金1両、1799年にはさらにそれを2両に増額。これらの福祉政策の数々は間違いなく善政と呼ぶべきものです。 天明の大飢饉より以前から田沼の治世の頃は災害が多く、宝暦から天明期の38年の間に発生した一揆の数は600件近くあり、都市騒擾も150件以上にのぼっていましたが、田沼は処罰の厳罰化のみで対応し、民を慰撫する行動をついぞすることはありませんでした。この対比を見る限り結果は明らかです。 2・二人の功績は、何ですか? 田沼の功績は貨幣改鋳や緊縮以外からの収入を得ようと幅広く施策したことです。また、その多くが失敗に終わりましたが様々な革新的な政策を行ったことは後世からみればエポック的と言えます。 定信の功績は上で上げたような福祉政策。あとは教育政策に成果があったことです。寛政以降、定信が定めた登用制度の結果、身分が低い出身の下級・中級官僚が多く輩出され、幕末で活躍することになります。

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一番の悪人は一橋治済です。 息子である11代将軍の徳川家斉は、父治済が本来の11代将軍候補で若死にした家基を暗殺したと信じていました。息子の目にはやりかねない人物と映っていたのでしょう。 田沼は経済政策の近代化。 定信は鬼平の登用。