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2021/1/19 2:25

44回答

今川義元は「海道一の弓取り」だったのですか?

日本史 | 読書36閲覧

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2021/1/21 5:34

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質問者

2021/1/21 15:37

回答ありがとうございます。スッキリしました! 家康の紹介が海道一の弓取りだったため武者絵の紹介で乗っかってきたようですね! ただ大身は巨人と言う意味ではないですよね。身分が高いことと辞書に書いてありました。 「街道一の身分が高い武将」その通りと思いました。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

回答ありがとうございます。 今川義元が海道一の大身(高い身分) 徳川家康が海道一の弓取り(戦国大名、強い武士) とわかって良かったです。<(_ _)>

お礼日時:1/23 17:18

その他の回答(3件)

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「海道一の弓取り」は今川義元を指して言われたことばです。(その後に徳川家康が同じ領地を支配したので家康もこう呼ばれています) 西に織田信秀、北に武田信玄、東は北条氏康に囲まれながら駿河・遠江・三河の三国100万石以上を守り抜いた戦略。 太原雪斎の補佐が有ったとはいえ部下からの信頼も絶大でした。 その後、甲・相・駿 三国同盟を結ぶなど政治力にも長けていました。 桶狭間では信長を過小評価したばかりに討ち取られてしまいますが、飛びかかってきた兵士の指を食いちぎるなど武将としても勇猛だったと思います。 武田信玄や北条氏康と比べても遜色ない武将でした。

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質問者

2021/1/19 12:37

>「海道一の弓取り」は今川義元を指して言われたことばです。 では、そう呼ばれたという史料を教えてください。 徳川家康は「徳川実記、藩翰譜」で史料上、呼ばれているのですが今川義元の史料を教えてください。

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「海道一の弓取り」は義元が元祖です。 桶狭間で寡兵の信長軍に不覚を取って首を取られたため、義元には「愚将」イメージが長らくついていましたがそれは後世に不当に評価されたものです。 義元は文武両道の当時の第一級の武将でした。武略はもちろん京文化にも造詣が深かった。 外交的にも武田、北条と三国同盟を結ぶなど政治家としての能力も高いです。 義元の悲劇は桶狭間の相手の信長が義元以上の知略の持ち主だったことです。

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質問者

2021/1/19 12:36

>「海道一の弓取り」は義元が元祖です。 では、そう呼ばれたという史料を教えてください。 徳川家康は「徳川実記、藩翰譜」で史料上、呼ばれているのですが今川義元の史料を教えてください。

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戦国当時はそのような呼び方はされていないでしょうね。 江戸時代に徳川政権下で「家康に忖度(そんたく)」する必要性から 「海道一の弓取り」という言葉が産まれただけでしょうから。 近年、今川義元が再評価されており、その研究が進むにつれ 義元こそが「海道一の弓取り」にふさわしいのでは? ・・・という事で、語られ始めたようです(^^)/

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質問者

2021/1/19 12:40

酷い・・・。 ネットから歴史書籍などでもあたかも「呼ばれていた」など書き始めています・・・。 完全な歴史捏造じゃないですか・・・。 こんなんじゃ中国や韓国のこと悪く言えないですよ・・・。Orz