召集年齢は、昭和十九年十月十九日の陸軍防衛召集規則第三回改正により、十七歳から四十五歳(施行十一月一日)、日本軍の残存兵力は、地上兵力 五五個師団 二二個独立混成旅団 二個戦車師団 四個高射師団 陸兵約三一五万人。昭和十三年から朝鮮人、台湾人に志願制が実施。昭和十八年から朝鮮人、台湾人にも徴兵制が施行され、合わせて九九個師団 陸兵約四二○万人。一五個野砲兵連隊。一三個重砲兵連隊。一三個野戦重砲兵連隊。七個独立戦車旅団、一○個戦車連隊。船舶部隊約三○万人(船舶工兵、船舶通信兵、船舶砲兵)。軍馬三三万頭。自動車三万台。海軍部隊約一五○万人。航空兵力約一万機(うち約七五○○機が練習機改造の特攻機)。陸軍軍人軍属約二二五万人(うち朝鮮人の陸軍軍人約二一万人)、海軍軍人軍属約一六九万五○○○人(うち朝鮮人、台湾人の海軍軍人約一五万一○○○人)。特設警備隊約二五万人。地区特設警備隊約二七万五○○○人。全て合わせて一七三個師団 陸兵約五九二万五○○○人。軍属等を含めると約六○○万人(うち朝鮮人軍属約一五万五○○○人)体制となり、うち約半数の七三個師団約三一五万人の兵力が本土(千島、朝鮮、台湾を含む)にあった。陸海軍最大動員兵力約七四四万二○○○人(満十七歳以上四十五歳以下の日本国籍男子総数は約一七四○万人だったので、その四割以上が軍に動員されていた。昭和二十年二月九日、徴兵検査未受験の第二国民兵に対する召集時の徴兵検査が延期され、四十五歳以下の男子はほとんど全て兵員となり得る体制ができあがった)。海軍兵力のうちのかなりは事実上陸戦要員であった。男子の国民義勇戦闘隊約二八○○万人。女子の国民義勇戦闘隊ほぼ同数。文部省編成の学徒隊。地域には予備役、後備兵役、帰休兵、退役軍人、警防団、が居た。女子、病弱者、軽度の障碍者、高齢者も含め頭数だけは揃った。視覚障碍者で聴力が良い障碍者は千葉陸軍防空学校監修の「敵機爆音集」と題した四枚組みのレコードを聴き、米軍爆撃機「ボーイングB17D」など計四機の高度を変えた飛行音で空襲に来る敵機の来襲を音で察知する盲人防空監視哨員の候補生に選ばれ、昭和十八年から昭和二十年頃、少なくとも五人の視覚障碍者が石川県七尾防空監視哨で盲人防空監視哨員として実際に配置された。また、軍では全国から視覚障碍者の鍼灸師やマッサージ師を集め、軍属扱いで「海軍技療手」「陸軍技療手」として、負傷した陸海軍兵士や軍属のマッサージを行なった。技療手の人数は、不明であり、南方で戦死者も出ている。海軍では、満十四歳以上十六歳未満で、飛行予科練習生、特別年少兵(正式名称は海軍練習兵)、水兵、機関兵、整備兵、工作兵、水測兵、電信兵、電側兵、信号兵、暗号兵、気象兵、看護兵、主計兵として。陸軍でも、満十四歳、十五歳で、士官候補生、機甲整備兵、飛行兵、戦車兵、通信兵、野砲兵、山砲兵、野戦重砲兵、兵技兵、工科兵、航技兵、高射砲兵、船舶兵、鉄道兵、軍楽兵として。少年通信軍属兵として満十四歳以上十八歳未満の少年を実戦に参加させた。陸軍は、防衛召集という形で、南洋諸島、台湾などの植民地や沖縄などで十四歳以上十七歳未満の少年達を軍隊に入隊させ、それらの少年兵達は皆、散って逝った。満蒙開拓青少年義勇軍(日本での募集の際は満蒙開拓青少年義勇軍と称されたが、満洲では「義勇隊」と呼称が変わった)は、満十五歳以上十八歳迄。国民学校高等科を卒業した少年船員も軍属として、信号士は十四歳、甲板部、賄(まかない)部は十四歳、カマ焚きが重労働になる機関部は十六歳。蒸気機関車運転機関助士は十五歳。インドネシアでは兵補といって、小学校以上の学歴のある十八歳から二十五歳までの約四万八○○○人のインドネシア人の若者達が、日本軍と共に、インドネシア国内の戦場やマレーシア、ビルマ、タイ、フィリピン、ソロモン諸島など、国内外の戦場で連合国軍と戦い、戦死者も少なくない。ジャワ島に八四四一人、カリマンタン、スラウェシ、ハルマヘラに一万二一○○人、ビルマに二八○○人、シンガポールおよびタイ周辺に一七五○人等である。兵補は昭和十八年に募集を始め、身体検査や面接などの採用試験があり、十八歳未満の若者もいた。主に防空、戦車、輸送、大砲、迫撃砲などの部隊に配属され、雑用から戦闘まで幅広い任務を担った。ジャワ郷土防衛義勇軍(ペタ)三万五三一六人も組織され、戦場で連合国軍と戦った。ビルマ独立義勇軍(後ビルマ防衛軍と改称)約一万二○○○人とインド国民軍約七万人、タイ王国外征軍約三万五○○○人は、日本軍と共にインパール作戦時に、英国軍と戦った。フィリピン人義勇軍の比島愛国同志会<マカピリ>約五○○○人は、日本軍とともに米軍と戦った。満洲国軍一五万人は、日本軍と共にソ連軍と戦った。台湾特設労務奉仕団は、マレーやフィリピンで日本軍とともに戦った。「戦場や陣地で、連合軍の銃弾が日本兵とそれらの外国人兵を区別して飛んできたことは一度もなかった」という。日本軍の補助部隊と位置づけられたインド特殊労務隊は、陸上、水上、建築、航空、自動車、警備などの労務に服させられた。比人勤労隊約一○○○人。満洲国協和少年団(一○~一五歳)・協和青年団(一六~一九歳)・愛路義勇隊(二○~三五歳)総数約二五万人。満洲国鉄道警護総隊約一万人。他にマライ義勇隊約五○○○人。マライ義勇軍約二○○○人。バリ郷土防衛義勇軍一五五六人。その他名前を列挙するならば、パラオ挺身隊、ポナペ決死隊、ラスカル・ラセット(スマトラ郷土防衛義勇軍)、ボルネオ義勇軍、バリ義勇軍、ジャワ郷土防衛義勇軍、南部セレベス青年団、ヒズブルラー(回教青年挺身隊)、越南青年先鋒隊(ベトナム)、比島ラウエル大統領付親衛隊、ヒリッピンガード、比国保安義勇隊、タガラの鉄の腕、石家荘白系ロシア人義勇軍(中国)、皇協維新軍(中国)、皇協新中華救国民軍、中華民国臨時政府軍、冀東防共自治政府保安隊、満洲イスラム教徒騎兵団、蒙古連合自治政府警備軍、靖安軍(せいあんぐん)、興安軍(こうあんぐん)、安国軍(あんこくぐん)または定国軍(ていこくぐん)、王殿忠軍、蒙古パレン王独立軍、セミヨノフ独立軍、張宗昌軍、九龍盟主義勇軍、鉄岑義勇軍、斉雲軍、趙有三軍、竜武軍、国民自衛軍、凌印義勇軍、蒙古青年独立党、間島特設隊(かんどとくせつたい)、オロチョン工作隊、ワー州クンロン自警団、アンボン土人警察隊、パプア土人巡保隊。ビルマでも兵補が組織されていた。
一方、海上部隊の残存艦艇は、老齢の軽巡洋艦一隻。練習巡洋艦一隻。「お婆さん」と呼ばれた旧式駆逐艦と「雑木林」と呼ばれた粗製濫造の新型駆逐艦両方合わせて二六隻。伊号潜水艦二九隻、呂号潜水艦八隻、波号潜水艦一八隻。海防艦六四隻。敷設艦一隻。砲艦九隻。測量艦一隻。運送艦一隻。海軍一等輸送艦五隻。海軍二等輸送艦九隻。特務艦八隻。練習特務艦一隻、給糧艦三隻。給油艦一隻、救難船一二隻。病院船四隻。救難曳船一隻。砕氷船一隻。気象・海洋観測船二隻。水雷艇二隻。駆潜艇一三隻。掃海艇六隻。敷設艇五隻。哨戒艇四隻。電纜(でんらん)敷設艇一隻。敷設特務艇一二隻。急設網艦一隻、駆潜特務艇一○九隻。掃海特務艇(主に漁船改造)二○隻。哨戒特務艇一九隻。魚雷艇二九四隻。雑用運送艦一隻。特設水上機母艦一隻。特設砲艦四隻。特設敷設艦一隻。特設航空機運搬艦二隻。特設給油艦一二隻。特設給炭艦一隻。特設給水艦一隻。特設給糧艦二隻。特設給兵艦一隻。特設病院船三隻。特設工作艦一隻。特設救難艦一隻。特設電纜(でんらん)敷設艦一隻。特設運送艦五隻。特設運送船(雑用)一四隻。特設駆潜艇(主に漁船改造)三八隻。特設監視艇一○○隻(主に漁船改造)。特設掃海艇(主に漁船改造)二三隻。特設敷設艇三隻。特設防潜網艇二隻。特設捕獲網艇五隻。飛行機救難船四六隻。被曳航油槽船五隻。自走水船(みずぶね)一隻。陸軍特殊起重機船一隻。試航船四隻。上陸用舟艇母船(陸軍護衛空母)一隻。陸軍ゆ号輸送潜水艇八隻。陸軍輸送船SB艇二三隻。陸軍戦車揚陸船SS艇九隻。陸軍戦車揚陸船ES艇四隻。陸軍車輌揚陸船五隻。魚雷追躡(ついしょう)艇三隻、コンクリート製曳航石油バージ五隻、戦時標準貨物E型コンクリート船四隻、小輸送艇、LST型上陸艦、五七ミリ戦車砲をつけた高速艇甲、陸軍装甲艇、陸軍AB艇(アーマード・ボートの略)、陸軍AB艇揚陸艇、回天揚収艇、測量艇、淩渫(りょうせつ)船、重油船、運貨船、水船、土運船、交通船、運貨船、内火艇(うちびてい)、内火ランチ、内火通船、内火伝馬船、動力用曳船、曳船(タグ・ボート)、機動艇、機付浮舟、折畳舟、特型運貨船とも呼称された(各々鉄製、木製、ベニヤ製の)特大発(特別大型発動艇)、大発(大型発動艇)、中発(中型発動艇)、小発(小型発動艇)、短艇(カッター)、団平船(だんぺいせん)、バージ(艀)、小蒸気船、機舟、鉄舟、雑船らの数は不明であり、その他、トロール船、延縄漁船、流し網漁船、巾着網漁船、手繰網漁船、カツオ・マグロ漁船、小型の漁船、木造機帆船、艀(はしけ)、ダイビング・ボート、捕鯨用のキャッチャー・ボートが有った。それらも米軍の攻撃を受け、破損されているものが多かった。終戦時、日本に残された各種商船の合計は一二一七隻、その中で運航可能な商船は小型商船を中心にわずかに七三○隻に過ぎなかった。