日本が特攻を始めた話をドイツも知って、「そりゃいいじゃないか!」と真似た。
それでいてヒトラーやゲーリングあたりは“あくまでも兵の自由意志”という建前で責任を回避している。
日本でも一応は同調圧力がやたらと高い環境下における志願制。でも、散華された方々には日本では靖国で神様としてお祀りされるという名誉は与えられた。
今でも九段のお社では神様として鎮座されておられる形だ。
日本とドイツ、どちらがいい加減かと言えば、それはドイツだ。
Wiki「ゾンダーコマンド・エルベ」
>ゾンダーコマンド・エルベ(ドイツ語: Sonderkommando Elbe 英語: Special Command Elbe[1])は、第二次世界大戦末期にドイツ空軍が編成した部隊である。米第8空軍によるドイツ本土爆撃が激化する中、これを体当たり攻撃によって阻止あるいは妨害することを目的として編成された。日本ではエルベ特別攻撃隊[2]、エルベ特攻隊[3]とも呼ばれる。
>ヒトラーは作戦の承認に際して、「(体当たり攻撃は)命令に基づくものではなく、あくまで自由意志で行われるべきである」と強調したという[8]。
ただし、ヘルマンや『ヒトラーの特攻隊』著者の三浦耕喜は、こうした高官らの態度は人道上からの懸念というより、むしろ無責任な臆病さの発露であると指摘している。事実、ゲーリングはヘルマンが作成した草案から「空軍総司令官たる自分が部隊を訪問し激励する」という旨の一文を削除した上で命令文を発行している[9]。
>1945年4月7日、アメリカ軍は1,304機の重爆撃機と792機の戦闘機が参加する大規模なドイツ本土爆撃を行った[19]。ドイツ空軍ではアルトマルクシュテンダール、ザルツヴェーデル、ガルデレーゲンの空軍基地、ザハウ、ガルデレーゲンの野戦飛行場、マクデブルク、ザクセンの飛行場など各地で部隊を出撃させて迎撃を試み、ゾンダーコマンド・エルベもこれに参加した。
>体当たりに成功した特攻機の数はごくわずかで、大半が撃墜されるか、機体の故障で不時着を余儀なくされていた。180機程度あった特攻機のうち、離陸に成功したのは150機程度で、実際に戦闘に参加したのは100機程度とされる[24]。生存者のうち部隊に戻ったのは15人のみで、それ以外は負傷者として前線を離れるか連合国軍の捕虜となったという[19]。
Wiki「V1飛行爆弾」
>V1(Fi-103)の派生型>Fi-103R ライヒェンベルク(Reichenberg)
>建前では、He111などの発射母機から空中発進した後、人間が誘導して着弾寸前に脱出することとしていた。しかし、操縦席後方にパルス・ジェット・エンジンがあることや、狭いコクピット等を勘案すると、実際には脱出は極めて困難であったと考えられている。 こうした点は、日本軍の桜花と非常に酷似しており、いわゆる特攻兵器の一つに挙げることができるだろう。
Wiki「Hs 132 (航空機)」
>単座の急降下爆撃機である本機の大きな特徴のひとつはパイロットが伏臥式に搭乗することにあった。これは、高速急降下から引き起こし時にかかる重加速(G)から乗員を護ろうという発想によるものであったが、このことで機体自体スリムにまとまった。
→これは、うつ伏せで機体に搭乗して操縦する。けれど、機体上面にはジェットエンジン、搭乗員の真下には主脚があって実際上脱出は不能という機体。
Wiki「Ba 349 (航空機)」
>Ba 349は、エーリッヒ・バッヘム博士により設計された。機体は木製で、機首に24-33発のロケット弾を装着する。エンジンはヴァルター式液体燃料ロケット機関(HWK 109-509A)1基で、垂直ランチャーから4基の固体燃料ロケットブースターを使用して発進する。発進後は目標付近まで無線誘導され、近接後機首のプラスチックカバーを外し、ロケット弾で攻撃を行う。その後、パイロットはパラシュートで脱出し、同時にエンジンも分離され、落下後に再使用する構造である。このあまりの航続距離の短さ・単純さのため、後に連合軍からは「有人対空砲」と呼ばれるようになる。
→日本では武装を外して軽量化した戦闘機でB29に体当たり、運がよければ搭乗員はパラシュートで脱出するという戦術をやった。何度も生き残って繰り返し出撃した猛者も存在する。ドイツはそれを木製のロケット花火で行おうとしていた形。
“少なくとも命令を出した軍上層部にはその気持ちは無かったと思います。”
↓少なくても主犯格の人間は自ら責任を取ったと思う。
Wiki「大西瀧治郎」
>大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、明治24年(1891年)6月2日 - 昭和20年(1945年)8月16日)は、日本の海軍軍人。海兵40期[注釈 1]。神風特別攻撃隊の創始者の一人。終戦時に自決。
>「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書は、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般青壮年に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭した内容であった。
Wiki「宇垣纏」
>8月15日正午、全日本国軍の降伏とポツダム宣言の受諾を伝える玉音放送が発せられる。これを受けて宇垣は「未だ停戦命令に接せず。多数殉忠の将士の跡を追ひ特攻の精神に生きんとするに於て考慮の余地なし」「余又楠公精神を以て永久に尽くすところあるを期す。一六〇〇幕僚集合、別杯を持ちあり。之にて本戦藻録の頁を閉ず」と戦藻録の最後を記した[80]。
特攻隊の出撃準備に取り掛かり、宇垣は中津留大尉の操縦する彗星43型に搭乗する。彗星43型は2人乗りだが、遠藤秋章飛曹長が交代を拒否したため、宇垣、中津留、遠藤の3人が乗ることになった[81]。海軍兵学校同期である第十二航空戦隊司令官・城島高次少将、及び幕僚である先任参謀・宮崎隆、参謀長・横井俊之から「死を決せられる気持ちは理解できるが、戦後処理や、国家的な責任の問題もあるため、なんとかとりやめることはできないか」などと翻意を促されたが、宇垣は「武人としての死に場所を与えてくれ」と、その決意は揺らぐことはなかった[82]。