織田信長は追放した足利義昭の「復帰」を了承した時期があるのですか?
織田信長は追放した足利義昭の「復帰」を了承した時期があるのですか? <ウィキペディアの記述> 室町幕府の滅亡は、元亀4(1573)年7月に織田信長が15代将軍義昭を京都から追放した時点とするのが一般的である。もっとも、義昭はその後も将軍を解官されてはおらず、信長の勢力圏外においては依然将軍としての権威を保持していた。 (中略) 義昭追放後もこれを庇護する毛利氏との交渉で信長もその「復帰」を了承しており、幕府が存続(復活)する可能性もあったが、義昭の信長に対する人質要求により実現せず、結局義昭が政権に返り咲くことはなく、結果的に元亀4年の追放時点に遡及して(中央政権としての)幕府の滅亡が確定したともいえる。 <これが質問です> ■信長が義昭の復帰を了承したのはいつの話なのですか? ■義昭が要求した人質とは誰なのか記録は残っていますか? <こんな回答はご遠慮ください> おふざけ、悪口、ただの感想文。 俺は知らん、○○の本で調べろ。 他人のHPを張り付けて「これを読め」
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天正元年9月7日、羽柴秀吉は毛利に書状を送り、信長に義昭の京都帰還を進言して同意を得たことを伝えている。 同年12月に堺で交渉が行われたが、義昭が人質要求にこだわり、秀吉が激怒して帰ってしまったことで決裂に終わった。 人質については具体的な名前は史料上にはない。しかし、義昭の最初の挙兵のとき、信長は自身の子供を人質に和睦しようとしたことから、おそらく義昭は今回も信長の子供を人質にとれると踏んだのであろう。
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<天正元年の年表で確認しました> 9月7日。信長、毛利輝元から義昭の帰洛を要請され「同心」する 11月5日。堺で豊臣秀吉と安国寺恵瓊が帰洛について談合する。 交渉は決裂。
質問者からのお礼コメント
回答ありがとうございました。
お礼日時:1/25 10:07