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素朴な疑問です。キリスト教を信じていない多くの日本のクラシック愛好家。

クラシック | 宗教134閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">25

回答(17件)

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逆です。 多分単純な素朴でキリスト教徒には理解できないものでしょう、 今日ではヨーロッパの知識人は殆どキリスト教を信じていません。 マタイ受難曲〜無神論者の多いオランダで「我々には神はいないがバッハがいる」というそうです。 https://www.google.co.jp/amp/s/plaza.rakuten.co.jp/mamakuncafe/diary/201504040001-amp/ 音楽愛好家ならドイツ語かわからなくても翻訳は読んでいる筈ですので、歌詞の意味は理解できます。 私は歌詞の翻訳は必ず何度も読み込みますし、新約聖書の概要も知識としてあります。また、ベートーベンの時代の人がキリスト教文明に行き詰まりを感じ、インド哲学などに世界観の広がりを求めたこともある程度は学んでいます。 逆にキリスト教的世界観だけでは彼等の音楽は理解できません。 芸術家という者は一つの宗教を盲信する程単純な者ではありません。 ミサ曲や第九を作曲したベートーベンも建前はカトリックですが、イエスは貼り付けにされたユダヤ人に過ぎないと言い放つていましたし、ギリシャやインド的な汎神論の神を信じていたようです。 ベートーベンはプラトンなどの古代ギリシャ思想に興味を持ちインドの哲学にも興味を示し、汎神論的な考えを抱きます。これはゲーテやシラーなどと同じ考えです。 第九の神は汎神論的神です。 なので、豊かな教養を持つ仏教徒が彼等の音楽を理解して感動していても不思議ではありません。 モーツアルトはキリスト教は建前だけで、本音はゾロアスター教を信仰していたみたいですよー モーツァルトとゾロアスター教 https://far-east-alexandria.com/post-1138/ ブルックナーにもキリスト教的仮面の背後にデモーニッシュともいえるゲルマンの森の神々のような原初の記憶が潜んでいて異端と言えるものです。 ゲーテの神もキリスト教的なものではありません。 「ゲーテの神は存在そのものを神として、汎神論的であり、宗教多元論的でもあります。ペルシャにもインドにも中国にもギリシャにも生まれた偉人は、神の力が働いていたと、見るのがゲーテであった。それが彼の「原宗教」というものに基づく神の見方であった。」 ゲーテはキリスト教的な独善的な世界観には否定的でした。 すべて過ぎゆくもの(すなわち現象一般)は神の似姿にほかならぬ ゲーテはまた、「自然」をほとんど「神」と同義語のように用いている。 ゲーテ自身は社会のしがらみの中にあったが、もっと自由な人間的な生き方を求めていた。キリスト教、もゲーテにとっては、 上からの社会的圧力の一つであった。 ファウストでは、異教世界に飛び、 美女ヘレナと恋に陥り、二人のあいだに男児オイフィリンが生まれる。詩の化身となったオイフィリンが地下世界に行くと、ヘレナもこれを追う。 そして、その果てに「時よ止まれ お前は美しい」とつぶやき、 その魂は、賭けに勝ったから俺のものだとするメフィストフェレスの意に反して、かつての恋人グレートヒェンの天上での祈りによって救われる。 ゲーテの神は、特定の宗教の神などではないと思います。 神性は自然の「根本現象」の中に啓示されている、とゲーテは言う 「自然のうちに神を、神のうちに自然を見る」(『年代記』1811年の項)という言い方をした。「神」がそのまま「自然」であり、「存在」がそのまま「神」と見るところから、そこからもゲーテは汎神論者と呼ばれる。 六、七歳の頃に「自然の偉大な神」を愛慕したあまり、自分なりに工夫して部屋に祭壇をこしらえ祈ったことも知られている。 ペルシャにもインドにも中国にもギリシャにも生まれた偉人は、神の力が働いていたと、見るのがゲーテであった。それが彼の「原宗教」というものに基づく神の見方であった。 ゲーテの神は存在そのものを神として、汎神論的であり、宗教多元論的でもあります。

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それ、前提が間違ってない? クラシックなんかに感動した事ない。 親父がそういうの好きで家でしょっちゅう掛けてたけど、一度たりとも感動したことがない。 あれ、本当にみんな感動してるの? 日本のキリスト教信者はみんなアクセサリーで信者やってる。 新旧問わず教会はだいたい映えるし、信仰なんて分からんけど取り敢えず、そんなカッコいい宗教やってるオレってカッコいいww くらいの感覚でキリスト教信者やってる。 クラシックもそれと同じでは? クラシック聴いてるオレってカッコいい、と思ってるだけでは?

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「その花の名前は知らないが、その美しさは知っている」 という言葉をどこかで聞いた事があります。 音楽もそのように思います。

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それが音楽だからでしょう 説明がなければ分からないようなものならそもそも誰も演奏しないし誰にも聞かれないじゃないですか 良いものは良いという事に理屈はあんまり必要ないんじゃないかな

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私はクリスチャンでクラシックも好きです。子供にはクラシック音楽の専門大学へ行かせるよう育てたほどです。さて、いくつも誤解があおりのようなので、少し説明をさせてください。 ◆クラシック音楽愛好家は、結構、キリスト教を学びます。 まず、第九、歌ったことありませんか?みな、その言語の意味、なぜこの歌詞なのか、をアマチュアの方でも勉強してコンサートに臨まれるのが普通です。多くの日本人が、クリスチャンでなくても第九を歌います。そして、そのゲーテの歌詞がキリスト教でないことを知っています。 多くのクラシック愛好家は、その曲の背景、歌詞の意味、キリスト教の場合はキリスト教の背景を親しみ、その曲の良さを深く味わっています。専門家が欧州に留学に行くのは、ただ音楽的な学びのためだけではなく、キリスト教がもつ世界観、教会の様式美を知るためでもあります。 程度の差こそあれ、アマチュアでもプロでも、キリスト教を理解したうえで、曲を楽しんでらっしゃる、と多くのクラシック音楽好きの友人がいる私には思えます。 なので、曲のすばらしさは、単純にその曲だけが持つのではなく、その思想性も理解したうえで、多くの方は楽しまれている、と言えるのではないでしょうか。 ◆でもクラシック音楽はキリスト教の宗教音楽ではない で、私の感覚でクラシック音楽のうち、宗教音楽と言えるものは、ごくわずか1割にもないのではないか、と思ってしまいます。 ご質問者様が第九をキリスト教の曲だと思っていたように、ここの回答者の方々のほとんどが第九をキリスト教ではないと否定なさっていないように、クラシック音楽=キリスト教の背景をもつものだ、と思い込みすぎです。 欧州は確かにキリスト教が背景にありますが、それは、東アジア全体ほどの大きさがあり、小さな国から大きな国までが集まった集合体です。日本と韓国でも音楽に差があるように、日本の伝統音楽とネパールの伝統音楽がどちらも仏教をもとにしたものだ、と論じているようなものです。クラシック音楽で言えば、ドイツのはやりとハンガリーの音楽は全く別ものだ、ということです。そこにアメリカが加わり、現代にまでその音楽が続いているため、キリスト教はクラシック音楽のごく一部の背景でしかない、と言わざるを得ません。 宗教音楽と言えるものは、教会のなかだけで演奏されており、クラシック音楽は、早くから教会を飛び出し、演奏会場で一般の人たちに向けて奏でられており、キリスト教とは無縁の活動として育っています。 ですから、第九がキリスト教の聖書とそぐわないから、誰も聞いてはならない、なんてことにはなっていないのです。 長文になってすいません。結論としては、確かにクラシック音楽にはキリスト教背景の曲もありますが、それはごく一部と言っても差し支えなく、特にその宗教的な背景を知らなくても楽しめるもの、です。もちろん、そうしたキリスト教を勉強することで、より曲の演奏を高めることはできるのでしょうけど、それは人それぞれ、お好きなレベルに応じてなさることだと思います。

さて、もう一方の疑問。神様の実在を信じていないのに、クラシック音楽を楽しめるのか。 これは、もう他のご回答者様たちがお答えなさっています。ですが、少し私の趣味も加えて、独自の回答をします。 わたし、アニメも大好きです。特に「なろう系」や「転生もの」が好きで、子供からばかにされます。もちろん、わたしは妖魔や転生や亜人、魔族などを実在していると信じていません。でも、アニメは面白い。 面白いものは面白い。好きなものは好き。そんな系統だけが好きなのではなくて、恋愛ものやスポーツ系も好きです。それらの作品の中にも楽しませてくれるものもあれば、駄作だな、と思ってしまうものもあります。だからと言って、魔法陣を書いたり、呪詛をとなえたりなんかしません。そういう世界観があることは理解しますが、それを信じているわけではありません。でも楽しい。 ま、そんなところです。