応仁の乱。 応仁の乱が勃発する直前の、畠山家お家騒動について質問です。
応仁の乱。 応仁の乱が勃発する直前の、畠山家お家騒動について質問です。 畠山持国は最終的に義就を後継者に指名したの対し、細川勝元、山名宗全らが弥三郎を担ぎます。そこで将軍 足利義政が義就支持を表明するのですが、何故義就の後継を支持したのでしょうか? 色々と調べてみましたがわかりません。
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ベストアンサー
まず足利義政は畠山持国の「持富廃嫡・義就への相続」をすでに認可して、偏諱もあたえていたところに、弥三郎擁立派が抵抗してきます。 将軍が大名の家督にむける視線には、目をかけてやることで自分の与党にしたいという意図が否応なく込められており、ここでは強引な手段をとった持国・義就父子の後ろ盾となることで、義政は二人に貸しをつくったといえます。 しかし義就の地盤の弱さは、家臣団の分裂というカタチで表に出てきます。 そこには畠山家中での勢力争いもからんでいますが、弥三郎派が細川・山名らに救援を求めたことで、形勢は弥三郎派に大きく傾きます。 細川と山名にも打算があり、この機に畠山を自分に近づけておこうと考えていたとされます。表向きは、持国の後継者変更は家中の総意ではなく、混乱を招いたので是正すべきというところでしょうか。 これは義政にとっては憤慨すべきことで、初志のとおり持国・義就を支持しつづけたわけですが、しかし表立って父子を支援する度胸はありませんでした。 騒動のあいだは表に出ず、戦が落ち着くと弥三郎の家督を認めます。この腰の弱さは、のちのちまで義政の欠点となります。 嵐が去るのをまって、細川勝元に憤懣をぶつけてもみましたが、勝元以外に管領の務まるものがいなかったので、結局は和解します。 ただ、山名持豊には冷眼をむけて、隠居においこんでいます。これがのちの文正の政変の遠因ともいえます。
御回答ありがとうございます。 『騒動のあいだは表に出ず、戦が落ち着くと弥三郎の家督を認めます。』 とありますが、正式に家督に認められた義就はその後、上意と称し大和国人と争ったりし義政の怒りをかって結局、義政は弥三郎の実弟である政長の家督を認める。と認識しています。 歴史的には1460年に政長の家督が認められ、その前1459年に弥三郎は死去しています。弥三郎が家督を認められた事実はあったのでしょうか?
質問者からのお礼コメント
ありがとうございました!
お礼日時:3/8 20:04