ショスタコーヴィチの交響曲7番の1楽章を聞いていたら、どこかで聞いた旋律。。。と思ったらガーシュインのパリのアメリカ人。

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回答ありがとうございます。 マキシムの歌を聞いてみましたが、あまり旋律は似ていない様な???でもパリと関係があったとは興味深いです。ということはガーシュインもこのオペラの影響もあったのかも。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

どの回答も知らないことばかりでした。ベストアンサーは迷いましたが、最初の回答にさせて頂きます。他の方も有難うございました。

お礼日時:4/12 7:51

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あの頃はドイツ軍を目の前にした緊迫の毎日 そんな呑気な気分ではいられなかったでしょう。 因みに似ている箇所ってどこでしょう?

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そうですね (笑) 当時ショスタコービッチ先生は 『ムツィンスク郡のマクベス夫人』というオペラが プラウダで 『音楽の代わりの荒唐無稽』と評価されて 粛清の恐怖にさらされていました これはスターリンの差し金です すでに、ショスタコービッチ先生の年長の友人の赤軍のトハチェフスキー将軍と舞台演出家メイエルホリドがスターリンによって粛清されていました そこでショスタコービッチ先生は 交響曲第七番レニングラードで 高らかに第二次世界大戦(大祖国戦争)におけるソ連軍の勝利を歌い上げ 反革命の疑いを晴らすことに成功しました だから ガーシュインの『パリのアメリカ人』を引用するなどということがあってよいはずはありません しかし ショスタコービッチは あえてそれをやることでスターリンをあざけりわらって 鬱憤を晴らしていました この間の事情をえがいたものに 『ショスタコービッチの証言』というヴォルコフの著書(中公文庫)があります これは生前ショスタコービッチ先生の周辺にいて インタビューしていたヴォルコフがショスタコービッチ先生から聞いたことをもとに書いて生前にショスタコービッチ先生の承諾を得ていたものです ショスタコービッチ先生が亡くなったらヴォルコフは西側に亡命してショスタコービッチの証言を出版する事にしていました ショスタコービッチは ヴォルコフに『私がもし死んだら』 と楽しそうに語っていたそうです 『ショスタコービッチの証言』は偽書とされていますが ショスタコービッチ先生の口から『ショスタコービッチの証言』と同じ話を聞いたという人が大勢いるようです しかし ソ連の公式のショスタコービッチ先生の伝記には ショスタコービッチ先生が熱心に取り組んでたサッカーについて詳しく書いてあり、『ショスタコービッチの証言』にはサッカーのことがまったく書いていないという違いがあります ショスタコービッチ先生はサッカーを見るだけではなく審判の資格を持ち子どもたちのサッカーチームに入って実際にプレーしていたようです なぜ子どものチームかというと大人たちのサッカーだとついていけなかったからですね ショスタコービッチ先生はサッカーが作曲のエネルギーの源だと語っています プラウダ批判(プラウダひはん)は、 1936年1月28日 のソ連共産党中央委員会機関紙『プラウダ』に掲載された、 ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を批判する 社説のことである。1930年代 のスターリン主義における、文化弾圧の代表的事件として知られている。また、社説掲載以後のショスタコーヴィチに対する冷遇を指すこともある。 内容 1930年代 の共産党中央委員会執行部は、スターリン体制を確立するため、芸術も国家体制維持のために利用しようと考えていた。ソ連の作曲家には、「内容において社会主義的、形式において民族主義的」のスローガンの元、社会主義国家に役立つ音楽作りが求められた。 しかし、当時ソ連を代表する作曲家だったショスタコーヴィチは、それに反する西洋モダニズムの影響を受けた楽曲を数多く作っていた。特に大衆の間で大ヒットしていた『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1933年 )は、不倫を題材にしたオペラであり、社会主義に役立つには程遠かった。そのため、当局にとってはモダニズム作曲家ショスタコーヴィチの存在は邪魔だった。当局はモダニズム作曲家の多くを シベリアに送る粛清措置をとっていたが、世界的に有名だったショスタコーヴィチには当該処置をとることができなかった。しかし、ショスタコーヴィチが政治色の乏しい歌劇で大衆の心を掴んでいる状況に当局は危機感を覚え、『プラウダ』の社説を用いて失脚を図ることにした。 1936年 1月28日の『プラウダ』は、「音楽のかわりに荒唐無稽」という表題の社説を掲載した。この社説で『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、平明さを欠く分かりにくい卑猥な音楽であり、社会主義リアリズムを欠くブルジョワ・形式主義的な音楽であると糾弾された。また、同年2月6日の『プラウダ』では、バレエ『明るい小川』が「バレエの偽善」という表題のもとに批判された。 これらの社説は、ショスタコーヴィチの音楽活動に大きな影響を与えた。ソ連人民の間で、この『プラウダ』社説はスターリンの意思を反映したものと捉えられていたからである。ショスタコーヴィチの作品は『ムツェンスク郡のマクベス夫人』はもちろんのこと、ほとんどの作品が上演されなくなった。一緒に粛清されるのを恐れ、共に行動する者もいなくなった。ショスタコーヴィチ自身も、モダニズム色の強い交響曲第4番 の初演を自身の意思でとりやめている(この作品は、1961年 に初演するまで封印された)。 なお、ショスタコーヴィチはその後、 1937年 11月に初演された 交響曲第5番 により名誉を回復した。 プラウダ批判については、1947年 のジダーノフ批判と比較されることが多い。両者は、ジダーノフ批判がソ連の主要作家・作曲家を対象に戦後スターリン主義の復活を目論んでいたのに対し、プラウダ批判はショスターコーヴィチ個人を対象にしていた点で大きく異なる。 写真は子供とサッカーをするショスタコービッチ先生 子供は後にマキシム・ショスタコービッチとして指揮者になり西側に亡命した 亡命前にモスクワで人身事故を起こしていたという噂がある 凡庸な指揮者であったと言われる

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