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2021/4/30 23:47

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始皇帝の秦が短命に終わった理由は何ですか?

中国史 | 世界史183閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">25

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始皇帝の時には、反乱がおきなかったという回答がありますが、秦に対する反乱は、二世皇帝になる前の始皇帝が支配していた時にもありました。 紀元前226年には潁川で韓の復活を求める反乱がありました。また、始皇帝暗殺が荊軻高漸離張良によって計画実施(ただし、成功せず)されました。 紀元前214年には一度秦が領有した越百越が秦軍を破って再独立しました。 史記を読んだこともなさそうな学者(私もそのような学者の意見を目にしたことがあります)の意見を鵜呑みにするのはいかがなものかと思います。史記を読んでみれば、始皇帝の時にも地域の反乱があったことが分かりますよ。

その他の回答(6件)

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始皇帝は、中華統一し、これからも 長生きし、中華を治めたいと思い、 長生きするものを使者に探させます。 その結果、倭の国(日本)に 長生きすると言われている水銀 (この頃日本は大正時代まで銀が大量に 採れていました。)を見つけ、 それを買い、始皇帝に持って いきました。始皇帝は、すぐさま 食べました(飲みました)。 するとべた3ヶ月後、急死しました。 (どうでしたか? 分かりやすかったですか?もし、 わかりやすかったら、 ベストアンサーに選んでくれると 大変有難いです。是非、よろしく お願い致します。✌)

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皇帝に権限が集中しすぎる問題がありました 当時の皇帝の仕事というのは 各地から持ち込まれる案件の可否を判定するものです 単純にいうと7国を統一すれば案件も7倍 つまり始皇帝はオーバーワーク気味でした 事実持ち込まれる案件を1日(竹簡)1石(30キロ)に制限してきます 問題は 皇帝が頑張ればいいんですが 皇帝がアホだと当然情報は捌ききれません なので行政は停滞し、トラブルが乱発し、しまいには陳勝呉広のようなチンピラが出てきます 事実始皇帝時代は殆ど反乱の類は起きていません あと、私見ですが 普通反乱の類は貧乏な民衆だけでは成功しません 知識人の協力が不可欠です 例えば李自成の乱では牛金星がいましたし太平天国の乱では洪秀全自身が(一応)知識人です 不運なことに 始皇帝の時代はそうした不平な知識人が山ほどいました 張良なんか代表格ですし、項羽も当時としては知識階層でしょう 山程国を滅ぼした以上、そこの王侯貴族の末裔が山ほどいたわけです

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秦の制度は先進的だったが革新的すぎて、他の国の実情には合っていなかった。 しかし、秦は例外を認めずに支配国に同一制度を強要したため軋轢と矛盾が生まれ、そのしわ寄せが民衆に押し付けられた。 当時の民衆とはつまり兵士のことなので、兵が強烈な不満を持っていた、ということ。これではどんなに法整備が進んでいても長続きはしない。 ただ、項羽はその兵士の感情をうまく使って反乱軍を動かし、かつての戦国時代と同じ政治体制に戻そうとしていたが、范増も反対していたし最終的には諸侯ににすら受け入れられなかった。制度の合理性自体は認知されていたんです。 劉邦は秦のいいところも採用し、彼の死後、漢帝国は秦の制度をほぼ踏襲している。 結局のところ、始皇帝は改革者の常で、数代かけてやるべきところを一人突っ走って急ぎすぎたのでしょう。

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制度が長期政権向きではなかったから。 秦は中央集権国家で、言わば全直轄地です。始皇帝なら、安定した国政でも、代替わりすると先代同様な治世になるとは限らない。また、小を以って大を治めているので、一旦、叛乱が起きると抑えるのは難しい。

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皇位簒奪。正当な後継者が死ぬように仕向けられ、予定外の人物が二代目になったから。 国も会社も二代目がいいか悪いかでその後が決まることが多い。始皇帝は皇太子を決めなかったけど、後継者は決めていた。でも側近が遺言を捏造していいなりになる末子を皇帝にして本当の跡継ぎは自殺させられた。始皇帝が選んだ息子の子が戦争を終わらせて国民を守ろうと死ぬ覚悟で劉邦に降伏した人物です。奸臣を殺して死装束で降伏した人とその父が国を治めていたら歴史は違ったかも。

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