新選組の永倉新八のその後を教えてください。お願いします。

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詳しくありがとうございます。

お礼日時:5/12 9:57

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甲州勝沼での敗戦後に江戸で近藤と対立して原田と共に新選組を脱退し、旧知の人間や原田と共に靖兵隊という別の組織を旗揚げ(原田はすぐに脱退し彰義隊へ合流)して戊辰戦争を会津まで戦った。一部戦線では新選組と同じ戦場に居たりもする。 会津で降伏、松前藩に帰参。 その後本人の回顧によれば、自身も粛清に参加した御陵衛士残党の鈴木三樹三郎に偶然江戸で会った際、新選組時代には相手にもしてなかった鈴木に対して、いつ斬りつけられるかと怯えまくったくらいに恐怖心を覚えてしまう。また鈴木と会った以降、永倉の周辺を不振な人物がうろつくようになったため、ちょうど縁談があった北海道の医師杉村家の婿養子となり、北海道へ移住する。 以降は、みんなの回答してる通り。 永倉は天然理心流に正式入門はしていなかったものの、京都時代に近藤が江戸へ、近藤・山南・土方・沖田・井上・永倉用の天然理心流用の防具を送る様要請した手紙が残っているように相当修めていて、多摩から天然理心流の門人が小樽の永倉のもとを訪れ型を教わったなんてエピソードもあるっす。 明治9年には板橋に近藤・土方の墓を建立。これには斎藤一も協力していた形跡あり。

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松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番隊組長及び撃剣師範を務めた。 慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、決死隊を募って刀一つで突撃する豪胆さを見せた。江戸に退却後、新選組改め甲陽鎮撫隊として板垣退助率いる御親征東山道先鋒総督軍(主力部隊は土佐藩迅衝隊)と甲州勝沼の戦いで戦うが撃破されて江戸へ敗走。江戸へ戻った後は近藤らと意見衝突して袂を分かつ。その後、靖兵隊(靖共隊)を結成し、北関東にて抗戦するが、米沢藩滞留中に会津藩の降伏を知って江戸へ帰還し、その後、松前藩士(150石)として帰参が認められる。明治4年(1871年)、家老・下国東七郎のとりなしで藩医・杉村介庵(松柏)の娘・きねと結婚して婿養子として松前に渡る。 樺戸集治監(北海道の刑務所)の撃剣師範を務めたあと、東京に出て剣道の道場を開く。 妻子が小樽で薬局を開いていたのを頼り北海道に戻り、北海道帝国大学で剣道師範を勤めて余生を過ごす。 大正4年(1915年)1月5日、虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を併発し、小樽にて死去。享年77。墓所は小樽市中央墓地と札幌市里塚霊園、東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地(字は蜂須賀正韶侯爵)の3箇所がある。