神代文字自体が「ない」のではなく、神代文字という文字体系として神代に使われていたことを否定する説が、定説である、ということです。
理由は「実際に『神代』にあった」ことを証明する資料を欠いているからです。
「事実」に対する立場は二つあります。すなわち「あると証明されたもの以外はないという前提に立つ」と、「ないと証明されたもの以外はあるの前提に立つ」の二つの立場です。一般に、科学的態度としては前者が採用されるのが基本です。神代文字について言えば、「漢字伝来以前の体系的な文字資料」が見つからない以上、実在の証明はできないといことになります。現在残っている古代文字に関する記述は、いずれも漢字とかなによって「これこれの文字は古字である」と後付けで認定したものであり、一次資料が確かに神代のものである、という証明はありませんし、今後も証明できる可能性は低いでしょう。
ただ、それを突き詰めていくと、歴史学では困ったことが起こります。「弁慶はいなかった(複数の僧兵から作られた形象である)が、楠木正成は実在の人物である」とか、「織田信長は実在の人物である」といった「事実」すらゆらいでしまうからです。墓や遺骨が残っていることや、時代の近い文献に名前が挙がっていることは有力な証拠となりますが、同時代の文献ですら、異同があるわけですから、確実な証拠とはなり得ません。たとえば、今、この世から漫画文化や出版というシステム、評論などといったものが全て失われ、登場人物の言行だけが残されたとしたら、1000年先の未来ではおそらくその登場人物は「実在の人物」であった、と評価されるでしょう。人工知能ワトソンだって、人として評価される可能性が高いです。私たちが古代、とか、戦国時代、とか呼んでいる時間の区切りの中で、そういう「事実」が発生していない、と決めつけることのできる証拠は一つもありません。事実だけを言うならば「今はない」「今いない」としか言えないからです。そのため、特に歴史について語る時には考古学的に明白な証拠がない限り、どうしても「話半分」と考えるべきだ、という主張する人が多くなります。
ということで、「実在する」のも「実在しない」のも、「ある前提にたって検討するならば」という但し書きがつきます。あるかないか、というのはその「前提」の違いですから、それは「そういうもの」と承認するしかありませんし、エビデンスベースの現代科学の立場に立てば、「神代文字の実在は根拠が希薄である」ということになる、ということでしかありません。