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2021/7/25 17:19

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浄土真宗では、追善供養を行わないそうですが、

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僧侶自身が追善供養をやっているのです。 追善供養とは死んだ人の為に読経してその功徳を死んだ人にささげている ものです。 浄土真宗の僧侶、否、仏教の僧侶のやっていることは皆追善供養です。 これでは聖人の教えが地上からなくなる日はそう遠くありません。 葬式や年忌法要などの儀式が、死人を幸せにするという考えは、 世の常識になっているようです。 インドでも、釈迦の弟子が、「死人のまわりで有難い経文を唱えると 善い所へ生まれ変わるというのは本当でしょうか」と尋ねています。 釈尊は、黙って小石を拾い近くの池に投げられ、沈んでいった石を 指さし、「あの池のまわりを、石よ浮かびあがれ、浮かびあがれ、 と唱えながら回れば、石が浮いてくると思うか」 と反問されています。 石は自身の重さで沈んでいったのであり、そんなことで石が浮かぶ はずがなかろう。 人は自身の行為(業力)によって死後の報いが定まるのだから、他人が どんな経文を読もうとも死人の果報が変わるわけがない、と説かれて います。 読経で死者が救われるという考えは、本来、仏教になかったのです。 釈迦八十年の生涯、教えを説かれたのは生きた人間であり、常に苦悩の 心田を耕す教法だったのです。 死者のための葬式や仏事を執行されたことは一度もなかったと言われて います。 むしろ、そのような世俗的、形式的な儀礼を避けて、真の転迷開悟を 教示されたのが仏教でありました。 今日、それが、仏教徒を自認している人で も、葬式や法事・読経などの 儀式が、死人を幸せにすることだと当然視しているのです。 その迷信は金剛のごとしと言えましょう。 そんな渦中、 「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したること未だ候わず」 の告白は、まさに青天の霹靂であるにちがいありません。 ここで「孝養」とは「追善供養」であり、死んだ人を幸福にすると信じら れている行為のことであります。 四歳で父を失い、八歳にして母を亡くされた聖人の、両親を憶う切なさは、 いかばかりであっただろうか。 亡き父母は、最も忘れえぬ聖人の幻影だったでありましょう。 そんな聖人が、 「父母の追善供養のために念仏を称えたことなど、一度もない」と 言われる。 無論これは 、念仏だけのことではありません。亡き人を幸せにしようと する読経や儀式、すべての仏事を「念仏」で総称されてのことです。 言い換えれば、 「親鸞は亡き父母を喜ばせるために、念仏を称えたり読経や法要、 その他一切の仏事をしたことは、一度もない」の断言だから驚くのです。 「死者の一番のご馳走は読経だ」などと、平然と先祖供養を勧めている 僧侶や、当然のようにそれを容認している世人には、如何にも不可思議 な聖人の発言であり、“なんと非情な”と冷たく感ずる人もありましょう。 だが、誰よりも父母を慕われた聖人が、衝撃的な告白で根深い大衆の 迷妄を打破し、真の追善供養のあり方を開示されているのが、この章 なのです。 かつてした ことがないと聖人が言われる、葬式や法事を本分のように 心得ている僧侶らを嘆く、覚如上人(聖人の曽孫)の教誡を挙げておきま しょう。 『某(それがし/親鸞)閉眼せば賀茂河に入れて魚に与うべし」と云々。 これすなわち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあら わしまします故なり。これをもって思うに、いよいよ喪葬を一大事と すべきにあらず。もっとも停止すべし」 意訳 「私が死ねば、屍を賀茂河に捨てて、魚に食べさせよ」と、しばしば 親鸞聖人が仰ったのは、なぜか。それはセミの抜け殻のような肉体の 後始末よりも、永遠の魂の解決(信心決定)こそが、最も急がなければ ならないことを教導されたものであります。 されば葬式などを大事とすべきではあるまい。やめるべきであろう。 仏教界はその意味で、今や病膏肓に入ると言えましょう。 今にして聖人のご金言を噛みしめなければ、残るは死骸の仏教のみとな るでありましょう。 では葬儀や法要・墓参は全く無意味なのかといえば、仏法を聞いた人に は仏恩報謝・法味愛楽、仏法を知らぬ人には仏縁ともなるでしよう。 毎年、多くの交通事故死が報じられいます。「昨年は何千人交通事故死」 と聞いてもすこしもおどろかない。ただ漫然と数字を見るだけで、「死」 については、まったくマヒしていないだろうか。 忙しい忙しいと朝夕欲に振り回され、自己を凝視することがない。 そんなある日、葬儀に参列したり、墓前にぬかずく時、人生を見つめる 得難い機会になることがあります。 「オレも一度は死なねばならぬ。酔生夢死ではなかろうか」 否応なしに冷厳な真実を見せつけられ、厳粛な思いにさせられます。 願わくは、単なるしきたりに終わらせず、自己の後生の一大事を感得し、 解脱を求める機縁としたいものであります。 年忌法要は何のためにするのか。 生きている私たちの後生の一大事の解決の勝縁とせねばなりません。 信前の者(未だ阿弥陀仏の本願に救われていない人)は求道の勝縁とし、 信後の者(弥陀に救われている人)は一人でも多くの人に弥陀の救いを お伝えしなければ仏恩報謝しているとは言えません。 よくよく心得ねばなりません。

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2021/7/26 16:39

浄土真宗 親鸞さんは親の為に一遍の念仏を唱えたことが無い。 死んだら鴨川に捨ててくれ と仰いました。が、後のお坊さんが金儲けの為やっているのが現状です。 適当に言い訳はいいますが、親鸞さんを慕う心なら師の御教えに従うべきかと・・・。まぁ信者さんは教義なんてどうでも良くて十字架のネックレスをして、Tシャツ着てお寺に参拝、泣けてきます。 お寺さんでは人寄せの為コンサートを開いたりイベント会場にしたりで金儲けに勤しんでいます。

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私の地域でも真宗大谷派(東本願寺)の寺院では年忌法要を営みます。 或る時、住職に尋ねれば「この地域では他宗のように年忌、回忌を行わねば門徒の皆様が納得致さぬため行っているのです。」と苦しい心の内を述べられましたが、一昨年の正月に寺院へ参った際、寺院内の柱壁に各家の年忌予定者の小札が貼られており、私の先祖も「百回忌」の張り出しがありましたが、その札をピッーと破り捨て住職に申し上げました「図に乗るんじゃ無い、他宗の年忌でも三十三回忌、三十七回忌で弔い上げであり、百年の年忌は神道の真似事です。」と住職殿は驚いて黙ってその場を去られました。 阿弥陀仏の本願に縋り、彼岸やお盆の供養をも否定しているのですから、当然の事と心得ます。

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質問者様が何処に住んでいらっしゃるかは分かりませんが、要は浄土真宗といえども商売なのです。 つまり、他の宗教と同様に年忌をやらなければ収入が無い! そういうことだと思います。

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浄土真宗の法事は一般的に言われる追善供養ではなく、 亡き人から私たちに阿弥陀様の教えが伝わっていることを感じさせてもらい、そのことに感謝をする「報恩感謝の法縁」という位置づけです。 一般的には 「私(生きている人)」→「亡き人・仏」 ですが 浄土真宗では 「亡き人・仏」→「私」 という具合です。

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