カノッサの屈辱に関しまして質問です。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

歴史の本態は暗く、どす黒い物ですね。 何が起こるか分からないです。 人間の本質を探るなら、やはり歴史をしっかり学ばなくてはいけませんね。

お礼日時:8/1 22:13

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カノッサで屈辱を受けたのはハインリヒ4世の方です。 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、1076年に教皇グレゴリウス7世の廃位を要求して逆に破門を宣告され、このまま臣下や諸侯にそっぽを向かれかねなかったので、1077年1月、北イタリアのカノッサに滞在中の教皇グレゴリウス7世に懇願するために、城外の雪中に3日間立ちつくして破門を許されたという、皇帝が教皇に屈服した事件が、カノッサの屈辱です。 赦免を得た皇帝はまもなく教皇に反撃して、1084年には皇帝の軍がローマを占領して教皇を捕えますが、こっちはカノッサの屈辱とは言いません。対立教皇クレメンス3世の登場などは、別の問題です。 自分がハインリヒ4世ならば、カノッサで教皇を火刑にして処刑します。

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勘違いされているようですが、カノッサで屈辱を与えたのは、ハインリッヒ4世で、屈辱を受けたのがグレゴリウス7世です。 グレゴリウスが、自分の意思に反して、ハインリッヒに屈服し、ハインリッヒの破門解除をしなければならなかった事が、グレゴリウスの屈辱なのです。 ハインリッヒが、グレゴリウスの前に現れ、謝罪した瞬間に、ハインリッヒの負けは無くなり、グレゴリウスの勝利がなくなったのです。 ハインリッヒが、イタリアに入るまでは、ハインリッヒの前途はありませんでしたが、ハインリッヒをイタリアで待っていたのは、ミラノ公を中心としたイタリア諸侯の軍勢でした。 ハインリッヒの軍勢に驚いたグレゴリウス7世は、愛人であったマチルタ女伯の持ち城のカノッサに逃げ込み、ハインリッヒは、そのままカノッサ城を包囲し、ハインリッヒはカノッサ城の中庭で謝罪と破門解除を申し出ます。 ここで、グレゴリウスが破門解除をすれば、教皇派の敗北となりますが、破門を許さなかった場合、ハインリッヒがそのままカノッサ城を落す口実となってしまい、グレゴリウスは、捕縛されて、別のハインリッヒのいう事を聞く教皇が擁立されることとなり、やはり教皇派の敗北となります。 最悪なのが、マチルダ女伯が態度を替え、マチルダによってグレゴリウスが捕縛された場合です。 その場合教皇派は、回復不可能なダメージを負うことになっていまいます。 グレゴリウスとしては、確定した負けの中で、最もダメージが小さい、破門解除を選択したのです。 破門が解除されたハインリッヒは、反皇帝派の諸侯を次々と破ると、グレゴリウスは、再度ハインリッヒを破門にしますが、ハインリッヒのイタリア侵攻を招くだけでした。 グレゴリウスは、親しかったロベール・ギスカールに命じ、ハインリッヒとの対決を意図しますが、ハインリッヒは対決を避けました。 ギスカール軍は、ローマで大略奪を行ってしまい、ローマ市民が、それをギスカールをローマに招いたグレゴリウスの責任と考え暴動を起こします。 ローマにいられなくなったグレゴリウスは、サレルノに逃亡しサレルノで怒りのため夜も眠れなくなり憤死してしまい、教皇権は、一挙に最低まで失墜することになります。 カノッサ事件において、ハインリッヒ4世は、何の失敗もしていません。 失敗したのは、グレゴリウス7世です。

その説は自信がありますか? カノッサで屈辱で教皇の力は欧州に示されました。以下十字軍の終末までその力は続きました。 確かにハインリッヒ4世は、長期的にはグレゴリウス7世を攻撃して勝利しましたが、カノッサでは明らかに教皇の力の強さが示されて、欧州に大きな影響を与えましたよ。

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グレゴリウス7世が皇帝の破門と皇帝権の剥奪をほのめかしたため、ハインリヒ4世は激怒し、1076年1月に独自の教会会議を開いて教皇の廃位を宣言した。ここに至って教皇も、1076年2月にハインリヒ4世の破門と王位の剥奪を宣言した。 教皇が皇帝やめろって言ってきたから、お前のほうがやめろといったら 破門されて、廻りから非難が凄かったということです。 自分だったら皇帝やめろの段階で意地をはりませんね、でも当時の皇帝は 王権神授説で神に近い存在だから、最初にゴメンとは言えないか。