神を冒涜することとは。

宗教 | 哲学、倫理108閲覧

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もう、何十年も前の話ですが、北陸でコーランを焼いた、外国のイスラム教徒がけしからん、神への冒涜だと騒ぎになったことがありました。 私はその当時パソコン通信をやっていましたが、掲示板に「それしきのことで冒涜だと騒ぐ方が神を軽く見てその者こそ冒涜に値する」と書いたことがあります。 お考えのとおりです。

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神々は、人間による冒涜など、特に恐れてはいないでしょう。。。 善良な神々は、人間一人一人を愛しているので、 信仰の無い人々を憐れんでいるだけでしょう。 近代の人類は、唯物論に堕し、神々(悪魔も)をいないと信じるようになってしまった のです。それは正しいことではないので、 人類が無神論的な立場に固執しても、得るものはほとんど何も無いからです。 唯物論によって、人類が自分自身が土の固まりと余り変わらないと信じることは 無益なのです。

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神は絶対王だとする宗教はそうなります。 [旧約聖書] わたしは大いなる王で、わたしの名は諸国の間で畏れられている、 と万軍の主は言われる。(マラキ書 1:14) わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、 ホレブで掟と定めを命じておいた。(マラキ書 3:22) あなた達はもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と 仕えない者との区別を見るであろう。見よ、その日が来る。炉のように 燃える日が。高慢な者、悪を行なう者は全てワラのようになり [燃え尽くされる]。しかし、わが名を畏れ敬うあなた達には 義の太陽が昇る。(マラキ書 3:18-20) その神の最も顕著な性格は人間を支配する絶対王である ということです。 古代イスラエル人は、世界最古と考えられる強大な王権国家を築き上げた エジプト地域とメソポタミア(アッシリア・新バビロニア)地域の間に 挟まれた、小さな弱小民族として存在していました。彼らは、 このエジプトとメソポタミアの諸国とその神々を イスラエルを脅かす敵として、記述しています。 古代イスラエル人は、自分たちの神を、エジプトやメソポタミアの 王権国家の王とよく似て、それらに対抗する、理想化された 「絶対的支配者・軍神」としての性格を持たせました。 旧約聖書(ユダヤ教の聖書)より古い古代イスラエル人の書である 『ヤハヴェの戦いの書』を引用しているのも、 そのことを示しているでしょう。 神はなぜ「最強の王者」としての性格を持つようになったのか。 なぜそのことが特に強調されるのか。それは、長い間エジプトと メソポタミアそして後のローマ帝国など強国に囲まれて、 翻弄され続けてきた弱小民族の立場がそうさせたのだと思われます。 今、虐げられている自分たちを救ってくれる本当に強い王がいる、 やがてその王が支配者となって、わたしたちの敵を滅ぼしてくれる、 という強い願いです。 彼らにとって、「王」=「救い主」=メシア=キリスト なのです。 それは、キリスト教にもそのまま引き継がれていて、 「愛」とか「赦し」とか色々いっても、結局、神への従順を意味する ことになっているのは、古代イスラエル人が作りあげた このような神の性格に拠ります。 神は人間を支配する絶対王であることが 新旧の聖書の大前提なのです。 神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一不死の存在、近寄りがたい光の中に住まわれる方・・・。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。 (新約聖書・テモテ第1・6章) 神は絶対的支配者ですので、自分に従わない者を赦すことはありません。 神の命令への従順を示さない者は最終的に永遠の「火の池」に 投げ込まれる(ヨハネの黙示録)のです。 そこは支配者への従順が全ての価値に優先する世界なのです。 その人生の意味や価値がその支配者の手に握られているのです。

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>神を冒涜しただけで落ちるような権威など端から無いのと同じだと思います 思いません。

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宗教はたいてい政治に利用されているからね。 きちんとした根拠なんてないんだと思う。 利用したい人が都合のいいことを言ってるだけ。