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玉音放送での「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」の一文についてですが、文豪がこの一文を引用したのか玉音放送の方が引用したのか定かでないのですが、以前何かでこのような情報を目にして、

文学、古典 | 日本史1,115閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">500

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「堪え難きを堪え」と「忍び難きを忍び」はそれぞれ用例がもっと古くからありますが、この類似した意味の句をセットで用いたのはこの『終戦の詔勅』が最初でしょう。これは当時の全国民に絶大なショックを与えたので、ひろく人口に膾炙し、真面目な意味でも、冗談めかした意味でもしばしば用いられました。 『詔勅』以前で、これに最もよく似た表現は1891(明治24)年の巌谷小波『こがね丸』にあります。 「かくと心に思ひしかば、忍びがたき処を忍び、堪(こら)えがたきを漸(ようや)く堪えて、見在(みすみす)雄を殺せしが。これも偏(ひとへ)に胎(はら)の児(こ)を、産み落したるその上にて。仇を討たせんと思へばなり。」

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終戦の詔書の草稿を書いたのは、漢学者で内閣官房嘱託の川田瑞穂氏が草案を起こし、それを基に迫水久常(さこみずひさつね)内閣書記官長が第二稿を書き下ろした。第二稿の書き下ろしには助手として、内閣嘱託の木原通雄、小川一平、大東亜省次官の田尻愛義(たじりあきよし)、迫水久常の実弟の迫水久良の四人で稿を纏めた。これに陽明学者で大東亜省の顧問であった安岡正篤(やすおかまさひろ)氏が筆を入れ修正して出来上がった。十四日の御前会議後の閣議は、文言をめぐって六時間もめた。加筆、削除は合計四十五ヵ所、文字数にして一六三字の改変があった。