奈良・邪馬台国・・・・九州支店「伊都国」の滅亡 倭人伝で 邪馬台国 vs 狗奴国の戦いが記録されていますが 北部九州では、○奴国というのがやたら多い

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邪馬台国連合に「奴」が多いのは、それが「大」という美称を表し、「ヌ」と発音する倭古語接尾詞だからです。 これは『万葉集』にも「カヌ」=「大きな(ヌ)船(カ)」などとして名残があります。 中国史書にも数多く、「倭または日本は昔、倭奴(ワヌ)国とも名乗っていた」と記されています。 それが「大」という漢字と意味が輸入されて「大倭」となり、やがて「ヤマト」が当てられるようになりました。 もちろん、『漢委奴国王』も「漢」の「倭奴(わぬ=大倭)国」の「王」と読むべきです。

奴=na これは、後の博多の古称「那の津」や、博多市街を流れる「那珂川」などに通じています 「漢委奴国王」=漢より奴国王を委ねる いい加減なことを書くのは・・・・やめましょう(^^)

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>邪馬台国の西日本進出 元々九州ですが・・・ ◎縄文時代 縄文時代に森林で縄文人(ミトコンドリアN9bやM7a、Y染色体D1b)が縄文文化を営んでいました。長江下流から西日本にかけて照葉樹林が茂り、照葉樹林文化が栄え、いも栽培や焼畑や陸稲栽培や納豆や餅や絹や漆や歌垣やハイヌエレ神話などを営みました。長江下流では倭族主流(Y染色体O2)の下戸遺伝子が増え、長江文明が栄え、温帯ジャポニカ米の水田稲作や鵜飼や貫頭衣や高床住居や鳥居や蛇神信仰やしめ縄や天岩戸神話やヤマタノオロチ神話や海幸山幸神話などを営みました。東シナ海沿岸では倭族の海人(あま)族(Y染色体O1b)が雑穀栽培を営み、入墨をして漁労も営み、国生み神話を伝え、黄海沿岸に広がって、朝鮮半島との間で雑穀栽培や漁労や交易や海賊を営み、遼東半島で華北人(ミトコンドリアD4)やツングース人(ミトコンドリアD4、Y染色体C2)と混血して、遼寧青銅器文化や匈奴のガラス工芸品やアルタイ系建国神話やタカミムスビ信仰や黄泉国神話を学び、朝鮮半島西南部で支石墓を営みました。 ◎弥生時代 海人族は朝鮮半島から更に済州島や対馬に渡来して、ミトコンドリアD4やY染色体C2やY染色体O1bや入墨や刻目突帯文土器や無紋土器や遼寧系細型銅剣や匈奴のガラス工芸品や支石墓や太占や馬鈴をもたらましたが、馬は持ち込めませんでしたので、馬鈴は祭器の銅鐸になり、国生み神話やアルタイ系建国神話やタカミムスビ信仰や黄泉国神話ももたらしました。 倭族主流は黄河中流の漢民族の諸国に攻められて四散し、山岳地帯の少数民族やインドのタミル人や東南アジアのモン族やタイ族になり、済州島や対馬にも渡来して、倭人=渡来系弥生人になり、Y染色体O2や下戸遺伝子や温帯ジャポニカ米の水田稲作や鵜飼や鉄器や貫頭衣や高床住居や甕棺や鳥居や蛇神信仰やしめ縄や天岩戸神話やヤマタノオロチ神話や海幸山幸神話などをもたらし、朝鮮半島南部に水田稲作を伝えて、オクキョン遺跡になり、北九州の縄文ムラにも水田稲作を伝えて、菜畑遺跡になりました。 これらの渡来系弥生人は九州や本州や四国に弥生文化を広げました。中でも海人族は北九州や山陰や北陸や近畿に銅鐸を広げましたが、そこには縄文系遺伝子も多く残りました。又倭人は北九州や瀬戸内に銅剣や銅矛を広げました。渡来系弥生人は人口が縄文人より増加し、縄文人と混血して弥生人になりました。春に麦の収穫祭を、秋に米の収穫祭をしたので、当時は世界諸民族が春秋歴=二倍年歴を使っており、人は年に2才年を取りました。 日本列島は低地が狭かったので、ムラムラが河川や低地や収穫を奪い合って戦い、環濠集落を営み、勝ったムラはクニになりました。海人族は対馬に天国(あまくに)を、北九州に委奴(いと)国や奴国を、山陰に出雲王国を、北陸に越(こし)王国を、奈良盆地に三輪王国を建て、倭人は山陽に吉備王国を建て、西日本に百余国が栄えました。対馬の天国は加羅・加耶も領有し、その天照(あまてる)王の子孫は出雲王国に国譲りを要求して攻撃し、出雲王国は銅鐸や銅剣を大量に隠して、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡になりました。国々は戦争を続け、最後まで徹底抗戦して負けたムラは奴婢にされ、被差別部落の起源の一つになりました。 委奴国は支石墓を営み、後漢に朝貢して、蛇紐の「漢委奴国王」印を授かりました。天国のニニギ王が北九州の日向(ひむか)峠に上陸=天孫降臨し、委奴国や奴国などを服属して倭国になり、北九州や加羅・加耶などを支配し、甕棺墓群を営んで須玖岡本遺跡になりました。 倭国の大乱で高地性集落が増え、青谷上寺地ムラは全滅し、倭国から一部の末端勢力が追い出されて東征し、奈良盆地の銅鐸勢力を滅ぼし、飛鳥川の扇状地にヤマト王国を建てて、2世紀後半に神武王になりましたが、69才位で死に、春秋暦で享年137歳とされました。その後9代目までは大した事績も無く、欠史八代になりました。 帯方郡から倭国の都までの総里程は万二千余里で、水行十日陸行一月でした。後漢から三国時代に変わり、遼東半島では後漢から公孫氏が独立して、倭国を脅かしました。魏が公孫氏を滅ぼすと、倭国の日巫女(ひみこ)王は魏に朝貢したので、次は呉が倭国を脅かし、倭国は有明海沿岸の吉野ケ里ムラを軍事基地にして備えました。 ◎古墳時代 高句麗や百済の渡来人が九州から、新羅の渡来人が出雲から広がり、鎌や機織具をもたらし、漢民族(y染色体O3a2c、ミトコンドリアD4)も渡来して、弥生人と混血し、日本人=大和民族になりました。百済の渡来人は百済系の須恵器をもたらしました。新羅の渡来人は新羅系の須恵器や玉やガラス工芸品をもたらし、神籬(ひもろぎ)ももたらして神社の元になり、天日槍説話になりました。 高句麗の積石塚が駕洛古墳群になり、高句麗の渡来人が倭国に古墳文化や三神界思想や「三種の神器」制度をもたらし、倭国は平原1号墳に三種の神器を祀りました。倭国は那珂八幡古墳を営んで、前方後円墳の源になり、支石墓は竪穴式石室になりました。高句麗からの渡来人は出雲に方形墳をもたらして、四隅突出型古墳になりました。吉備なども古墳を営みました。 ヤマト王国の三輪王朝の崇神王は纏向方面を征服して、神殿を建て、倭国以外のヤマト同盟の諸国が種々の様式の土器を持ち寄り、纏向遺跡になりました。彼は改めて始祖王とされました。三輪王朝は箸墓古墳や鳥見山古墳群や大和(おおやまと)古墳群や佐紀盾列古墳群などの前方後円墳を営みました。 高句麗や百済からの渡来人が倭国に横穴式石室をもたらし、鋤崎古墳になりました。倭国は沖ノ島でも祭祀し、筑後平野に中心を移し、高句麗や百済からの渡来人が倭国に装飾古墳や直弧文や石人・石馬をもたらしました。倭国は高句麗と戦い、高句麗好太王碑に記されました。 ヤマト王国は高句麗戦に参戦せず無傷だったので、騎馬軍で大阪平野を征服して河内王朝を開き、古市古墳群や百舌鳥古墳群の巨大古墳を営みました。 魏の後継が南朝になったので、倭国の五王は南朝に朝貢し続け、官職を要求しましたが、高句麗や百済より下位の官職しか叙任されませんでした。百済の蓋鹵王は新羅と対抗したので、倭国と同盟して、倭国に七支刀を贈りました。 ヤマトは倭国の磐井王を磐井戦争で敗り、ヤマトの物部将軍は倭国から七支刀を奪って、石上神宮に納めました。ヤマトは倭国から阿蘇ピンク石棺を得て、今城塚古墳に納めました。 百済は倭国にシベリア起源の冠や、靴や銘文鉄剣を贈り、江田船山古墳に副葬されました。 埼玉(さきたま)王国の磯城宮(埼玉県志木市)の加多支鹵大王は部下に銘文鉄剣を下賜して、稲荷山古墳に副葬されました。 倭国は朝鮮半島南部に前方後円墳を営みました。 ◎飛鳥時代 ヤマト王国は征服した諸国の元王達に古墳の祭祀を禁じ、皇室の祖先神を天照(あまてらす)とし、諸国の元王達の祖先神を天照(あまてらす)の子分の神々として序列化し、古墳の代わりに神社を建てさせました。ヤマトの都の飛鳥は加羅や百済や新羅の渡来人が占め、飛鳥貴族から律令官人への転換に当たり、百済系と新羅系が主導権を争いました。 倭国は仏教を取り入れました。 ヤマトも元王達に仏教を強制し、寺院の建築を推し進めました。 倭国王阿毎字多利思北孤(あめのたりしひこ?)は遣隋使を送りました。倭国は大宰府を都とし、白村江戦争で新羅や唐と戦い、山城や水城を築いて、大宰府を守りましたが、敗れて衰えました。 ヤマトは白村江戦争に参戦せず無傷でした。ヤマトでは新羅系が主導権を握り、国名を日本とし、その王を天皇と改め、東国農民を防人として、倭国に送って滅ぼし、西日本を統一しました。日本は諸国の歴史書を参考にして、「古事記」「日本書紀」を著し、参考文献を焚書し、倭国の歴史を抹殺しました。

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弥生時代に入り、大陸からの渡来人が九州で対立した。縄張り意識と土地争いと相まって、。新羅VS百済に思います。蘇我も秦氏も新羅の出らしい。福岡博多 板付遺跡、佐賀県 唐津市 菜畑遺跡は、縄文晩期 稲作が雲南省 江南ルートで入り、弥生時代に本州全域に普及した。邪馬台国の所在地に合ってる。安曇海洋族 奴国も渡来したのかも?奴国に下賜品金印は、一国だけの軽いものじゃない。奴国連合の邪馬台国 巫女集団があった。天皇と云えども元は豪族の一派だった。狗奴国は、日向王国で、ニニギノミコトを先祖に持つ天孫族、隼人族です。迷宮入りした邪馬台国所在地論争は、この肝から来てる。史実は神秘のベールに包まれいるのだから、パンドラの箱を開けてはいけませぬ、。祟られますよ!貴方も畿内説なら、宮仕えして下さい!

かつて、北部九州の「那族=奴族」は、漢に朝貢した・・・ しかし、2世紀の天候不順によるコメの不作、そして、奈良邪馬台国の九州進出で「倭国大乱」が勃発 多くの北九州諸国が邪馬台国の支配下に入った 唯一(?)邪馬台国の支配を免れた南の狗奴国が・・・・国力を付けて、邪馬台国に「奴族解放戦争」を仕掛けた 邪馬台国に支配されていた旧奴国民も・・・武器を持って立ち上がって、伊都国の一大卒を殺害 奴国インディペンディンスデイ(^^) それが、倭人伝に描かれた「邪馬台国vs狗奴国戦争」の実像でしょう 狗奴国だけで・・・・7万戸の超大国邪馬台国に戦いを挑むはずはない

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邪馬台国は、九州にこじんまりとしてありました。 奈良にあったのは、天皇家の先祖の国です。 ちゃんと分けて考えましょう。 日本書記、古事記には、魏に使者を送ったことも、魏の使者が来たことも書いてありません。なので、邪馬台国は、畿内の国ではありません。

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緩い倭人連合国を形成した諸国は、邪馬台国に対する反感をそこまで持ったか甚だ疑問です。 ならば何故、狗奴国を盟主とする倭人連合国を形成しなかったかと。 奴は同族とかではなく、魏人から見てのただの蔑称だったのではないでしょうか?

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