回答受付が終了しました

茶道について。 千利休の千家って今は表千家とか裏千家とかいろいろ別れてるじゃないですか。 その歴史を教えてください。 別れるまでの経緯と別れた後、どのような違いがあるのかなど。

茶道 | 日本史169閲覧

回答(3件)

0

茶道を嗜んでいる者です。 簡潔に申し上げますと 表は、利休の正当後継者が継いだ伝統と格式を守る正統派の流派です。 裏は、利休の孫(正当な後継者では無い)が継いだ流派で、その時代によるお茶の立て方を取り入れていく柔軟性に飛んだ流派です。 1番分かりやすい表と裏の見分け方は、泡がいっぱいお茶碗あるものが裏ので、表はお茶に泡を立てずに出します。

0

ID非公開

2021/10/26 19:42

「三千家成立以前、堺千家と京千家」 利休が後妻宗恩と再婚し、そのつれ子少庵が千家の一員になったことにより、少庵と同年齢であった道安は、少なからず衝撃を受けたようです。 道安が後にほぼ十年間、茶事の上で記録から姿を消すのが、そのあたりの事を推測させます。 その後、少庵は堺から京都に移り住んでいるのは、利休がこの二人の関係を顧慮してとった措置と考えられる。 大徳寺門前の家がこれで、後に利休がここに入って不審庵を営み、その機に少庵は二条衣棚に移り、後に本法寺に移っています。 この間に道安も立ち直り、父と同様秀吉の茶頭になり活躍します。 北野大茶湯では、父の片腕となって重要な働きをしている。 少庵は秀吉の茶頭にはなっていません。 この間少庵は、利休の意向に従ったものとおもわれ結婚し、宗旦以下二男一女をもうけています。 後に宗旦を大徳寺に入れて喝食となしたのは、少庵が自分や子供たちは千家の家督と無関係であることを示したものと考えられる。 利休在世中、道安が千家の家督と茶統を受け継ぐ立場にある事は、自他ともに認めるところであった。 利休が堺に蟄居を命ぜられていた時につくった「末期の文」すなわち堺関係の財産の処分状の作成には道安が立ち会っている。 ところが秀吉の死により、道安は堺に戻り、少庵は京に留った。 そして後嗣の無かったと思われる道安が慶長十二年、堺で没したことにより、堺千家は自然消滅し、千家の茶統は少庵と、大徳寺から出て家に戻った子の宗旦へ、すなわち京千家に受け継がれることになる。 これが、利休の家督と茶統が実子道安ではなく継子小庵~宗旦へと受け継がれた経緯である。 「乞食宗旦」 少庵も慶長十九年になくなり、千家再興の仕事は宗旦の双肩にかかることとなった。 しかし利休時代とは違い、確たる家産と家職を持たない宗旦は、経済的不如意に悩まされる年月を送らなければならなかった。 次男の宗守を塗師屋の吉岡家に養子に出したのも、経済的な理由によるものであり、また長男宗拙との不仲と家出もそのことが無関係ではないようです。 宗旦は仕官をすすめられてもしなかったようである。 こうしたことから「乞食宗旦」の異名をとった宗旦であるが、これには宗旦が茶禅一味を説き、侘びを強調したことと無関係ではないでしょう。 「宗旦四子」 長男宗拙 宗拙は家を出、医師野間玄琢方に身を寄せ、晩年は西賀茂の正伝寺にて没している。 次男宗守 若い頃吉岡屋の養子とされ、甚右衛門と名乗ったが、遅くとも慶安初年には茶人として身を立てる決心をし、玉舟和尚について出家、似休斎宗守と号している。 宗守は宗旦没後、讃岐高松の松平家の茶道となり、翌年には致仕したと伝える。 三男宗左 宗拙、宗守が宗旦先妻の所生であるのに対して、宗左と弟宗室は、宗旦が二十年ばかり後に再婚した宗見の所生で、前二者とは親子ほどの隔たりがある。 肥前唐津寺沢志摩守広高の茶頭になっていたが、後島原の乱で失職する。 柳生但馬守宗矩の斡旋で紀州徳川家に仕官している。 四男宗室 宗旦は医師にしたい意向をもち、野間玄琢に弟子入りさせているが、玄琢が亡くなったため宗旦の元にもどっている。 後に加賀前田家の茶頭とされ、隠居した利常に従って加賀小松城に行き三の丸に屋敷を与えられた。 三千家流の茶風の違い、好み道具等の違いがあるとおもいますが、私が千家流ではないので、詳しくは分かりません。

0

表千家、裏千家、武者小路千家の3つがあります。 千利休の婿養子の子、千宗旦の三男が、千宗家として家督を継いで出来たのが、表千家。 千宗旦の四男が、父、宗旦の隠居庵を貰ってたてたのが、裏千家。 養子先から戻った次男がたてたのが武者小路千家になります。 流れとしては利休の本流を汲むのが表千家で、裏千家や武者小路千家は比較的分かりやすいようなつくりになっているらしいのですが、その程度までの知識で、茶道の心得がないもので、浅くて申し訳ありません。