① 聖書には、聖母マリアが 処女懐胎 した と明記されているのですか? されているとしたら、イエスは 神か 半分神? ・ ② イエスが 神か人か の問題で、

補足

③ キリスト は 救世主 という意味だそうですが、救世主は 人なのではないですか? イエスが 神なら、イエス・ゴッド などにならなかったのは なぜ?

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3. キリスト、Χριστός(ハリストス)は、χρίζω(油を注ぐ)という意味の動詞からの派生語で、油を注がれた人という意味です。 ここでの油は、実は聖霊のことです。つまり、ヨハネが洗礼を授けた時にキリストの上に聖霊が降りてとどまった、というわけですよ。 もともと一体の神なら、なんでまた降りてくるの?ということになるでしょう。ですから、質問者さんの疑念には一理あります。 教会の説明は、人でもあり、神でもあった、というものです。 人はアダムの罪によって、最終的な神との一致という目的を達成することができない状態にあった。神自ら人の形をとって受難することで、その障壁を取り除き、人が再び神に回帰することが可能になった、というわけです。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆さん たいへん詳しくありがとうございました。 とても勉強になりました。

お礼日時:2021/11/28 19:26

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イエスは元神と共に天に住んでいたが、使命のために、マリアの腹に降りて来た。 なぜややこしい事をしたかは、ヨセフもマリアも、イスラエル王国の家系であり、イエスは王になる資格があると、人々が認める必要があった。 救世主。 人間政治を倒し、神の国にする王イエス。 人間に永遠の命を回復するイエス。自分の命をアダムとイブの身代わりに捧げた。 イエスが処女から生まれる必要性。 アダムとイブの罪を遺伝してない、完全な肉体じゃないなら、元の完全体のアダムとイブの身代わりには、なれない。

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① マリアが処女懐胎したとは明記されていないと思います。 神からつかわされた、御使いガブリエルに男の子を産むと伝えられただけです。 イエス・キリストの家系は預言者の家系ですから、母マリアも預言者だったのでしょう。 ② イエスは、人の子から神の子になったのです。 現代のキリスト教会の教えは妥協案ばかりです。 ③ イエスは、香油という油を注がれることで預言したり、悪霊を追い出したり、霊的な病を癒やすことが出来たのです。 だからイエスは、「香油を注がれた者・イエス」と呼ばれたのです」 「香油を注がれた者・イエス」はギリシャ語では「イエス・キリスト」になります。 「イエス・ゴッド」では、どうしたら救われるのかが伝わりづらいのです。 キリストは救世主という意味です。 香油を注がれた者が救世主だということです。

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そうです聖書に明記されている。そして質問②のようイエスが神か人かというイエス論がキリスト教の教義を決める最初に決めなければならない定義だった。 イエスがどんな者で何をしたかを書いたのが福音書。新約聖書には4つの福音書があるが、実は新約聖書が固まる前には多数の異なるイエス伝・福音書があった。いまでも聖書に入らなかった福音書が現存して日本語版もある。そして4つを除くイエス伝はキリスト教のイエス定義からはずれるから聖書に入れなかった。それだけイエス像を定める議論は錯綜したのだ。 キリスト教を成立させるためには、まず絶対に譲れない条件がある。その条件はまず「神は唯一の主ある」、そして2つ目はパウロが主張した「イエスは死からよみがえった」。この2つを絶対条件としてイエスが何者かを考えたとき、神である人であると異論が出たあげく「完全に神であり完全に人である」とお茶を濁した、あるいはとりとめのない話にした。 イエスが神であるか人であるかの議論から、誕生についても並みの人間でない神話を作って主張に辻褄を合わせる必要が生じたのだ。それが処女懐胎だ。 できあがった聖書物語をこの場で語るのは何の知恵もない。イエス物語は出来上がった教義からさかのぼって神話化されていることを知るのが知恵だ。

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マリアが処女妊誕したというのはルカ福音です。 しかし若い少女を処女と誤訳したのではないか という意見もあります。 ――――― 「イエスは神である」という 後代に作られた伝統的信仰箇条などを前提としないで新約聖書 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13216593133?__ysp=44Ot44O844Oe44CA55qH5bid44CA56We44CA5LiJ5L2N5LiA5L2T を読めば、 イエスは 「(神ではなく)神が使わした予言者・メシヤ」、 「(神ではなく)神と人との仲介者・メシヤ」、 「(神ではなく)神が遣わした神の子・メシヤ」 というイメージが、新約聖書の語るイエス像として 浮かび上がってくると思います。 福音書の記述から想像できるように、イエスの直接の弟子たちは、 イエスを神からの救い主(メシア、キリスト)と期待していた のだと思います。 イエス処刑の理由も、それによると、 イエスが「ユダヤ人の王(メシア)」として信じられていたことでした。 ところが、 4世紀の二ケア会議の頃までには、 キリスト教がイエスを神と同一視するようになっていたのです。 旧約聖書においては、そもそも、神は死ぬことができません。 それゆえ、神は復活することもできません。 従って、イエスが神と同一でないことを前提にした上でのみ、 イエスの死と復活が意味を持ちます。 福音書のイエスの死とその復活の物語を読んでいて、 その非日常性はともかくとして、論理的に何の困難も感じないのは、 「イエスは神」というイメージが、福音書に欠けているからです。 ローマ帝国においては、その皇帝は自己を神と考えていました。 イエスを「神人融合体」とする考え方は、 その母マリアを「神の母」とする考えと共に、 そのような異教文化圏内でキリスト教が発展する中で 出てきたものであって、特に、3~4世紀の テルトリアヌスやオリゲネスやアタナシウスなどの 教父たちによって明確化にされていった思想です。 そして、一旦イエスを神とする考える思想が正統化される (AD325年ニケーヤ会議)と、イエスに関する他の考え方は、 ローマ皇帝の政治権力によって排斥されました。 例えば、AD333年に、ローマ皇帝コンスタンチヌスは、 ニケーヤ会議によって異端となったアリウス派の書は 見つかり次第かならず焼却すること、 そして、そうしない者は死刑に処す、という勅令を出しています。 このようにして、イエスは神であるという思想が キリスト教の正統的信仰として確立されていったのです。 現代のキリスト教の多くが、イエスを神と信じるのは、 そのような伝承を受け継いだ人たち (神学者や神父や司教や司祭や牧師)に教えられたことを、 そのまま無批判的に受け継いでいるにすぎません。 ーーー 創造者と被造物を厳格に区別する 本来のユダヤ教の聖書(旧約聖書)から見れば、 イエスを「神人融合体」とする思想は明らかに異教であり、 神でないものを神とする偶像崇拝にさえなります。 メシヤとは「油を注がれた者」、 神によって(イスラエルの民の)王として任命され、 イスラエルを救い守る使命を与えられた者 のことを意味するのであって、「神人融合体」を意味する メシヤ思想は本来のユダヤ教の聖書の伝統にはありません。

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①マタイ1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。) イエス様はもともと神様で、人類の罪を身代わりに背負って十字架で死ぬために、人となって来られたのです。 ②聖書は真実を述べているだけです。人間のアイデアで決めたわけではありません。

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