キリスト教に対する批判をどのように論破したら宜しいでしょうか? ♰ 「パウロがいなければイエスはユダヤ教ナザレ派で終わっていた」 「イエスは革命を起こしてユダヤの王となろうとしたが失敗して終わった」

補足

ユダヤ教徒、聖書批評学者、客観的立場の宗教学者、一般的批評を搔い摘まんで書きました。それぞれの立場・論拠等、詳細に書くべきでした。 私は親の代からキリスト者の立場で生きて来ました。洗礼を希望した時期が、学園紛争の盛んな時代で教団の議会が左翼に暴力的に乗っ取られるという状態の中、教団を去り、様々な教派、宗派を体験し、イエスのみを絶対視する教会を探しながらも出会えないまま、未だ洗礼を受けずにいる、古稀に近づいた高齢者です。

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ベストアンサー

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僭越ながら、仰る全てに「我が意を得たり」です。如何なる立場にも捉われず客観的に正確な分析が出来る大変貴重な方ですね。 >「キリスト教が間違っている」様々な理由に通じており、 > 様々な聖句や論議にも精通していました。 これは大変貴重なお話ですね。是非詳しく伺いたいものです。 > 擁護すべき『キリスト教』 > 擁護すべき教義 ユダヤ教徒達と接するうちに「同じ聖書を信じる者同士が何故心から理解し合うことが出来ないのか?」 純粋にイエスの言葉のみを絶対視するなら、ユダヤ教との連続性を見出すことは難しくないのではないか? 壁を作ってしまったのはパウロではないか? それが私個人の結論です。(四福音書にもパウロの影響があると言われておりますが) 全体を通して奥深い知識と熟成した思想をお持ちと拝見致します。 もしブログなり何なり御教授戴ける場がありましたら教えて戴けませんでしょうか?

ThanksImg質問者からのお礼コメント

色々と参考になる御教授有難う御座いました。 今後も皆様に御教授をお願いすると思いますが、 宜しくお願い致します。

お礼日時:2021/12/1 22:22

その他の回答(16件)

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たぶんユダヤ人は他の民族と同じくカリスマ的なヒーローを望んでいたんだろう。だけど現実は甘くない。ユダヤ人からヒーローは取り上げられて異邦人にヒーローが与えられた。ってモーセの律法にもかいてあんだけど、神様から見捨てられたことをビリオンセラーの書物で全世界に広められるのはたしかに恥ずかしいし、認めたくないんだろうな

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私の質問は、今まで直接ユダヤ教徒と質疑応答したこと、ユダヤ教徒の言い分、聖書批評学者の本、俗に言われている批評等を見聞きして、それに対してどう説明するかです。 御言葉に従って伝道・宣教を御旨と自覚するなら、誰に会っても伝道の対象です。 それを感じ取って戴いた上で皆様から御回答を戴けたら幸いです。

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質問者さんが必要と感じれば、洗礼を受ければ良いと思います。 必要が感じなければ、論破すれば良いと思います。

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私が洗礼を受けようとしたのは70年代学園紛争華やかなりし頃。 若い牧師達がヘルメット、マスク姿に角棒を振り回し、暴力的に議会を乗っ取り、「私はクリスチャンである前にマルキストでありたい」と主張する人がリーダーとなり、讃美歌を歌わせずインターナショナルを歌わせ、議会で牧師がナイフを取り出し、それはイエスに倣ったためと嘯く。 それでもその教団の洗礼が有効と信じるのが信仰者という人々とは席を同じく出来ない。その抗争は今も続いていると言う。時代が過ぎて母教会に行ったら入り口掲示板に社会党・共産党そっくりのチラシが貼ってあり、反戦・反核運動へ参加を強制されると言う。 私はただイエスの御言葉のみを絶対視する教会を探して来た。 この後別途に質問を立て、そこで現況キリスト教世界の大元となったパウロ・ルターの言葉と他の御言葉:旧約・イエス・ペテロ・ヤコブとが明らかに違うことを指摘したい。

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ユダヤ教ではイザヤ書53章に記されている「彼」は誰だと教えていますか? キリスト教ではこの個所を「初臨のメシアはユダヤ人から見捨てられ、苦しみを受けなければならない。」と解釈しています。 つまり、ユダヤ人に受け入れられるメシアは偽物です。 なので、ユダヤ教から排除されているイエスはやはりメシアなのです。 (王なるメシアの預言は再臨のときに成就します。) 詳細を学習するのにお勧めの本です。↓ https://harvestshop.net/jp/products/detail/583 【新改訳2017】イザヤ53章 私たちが聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕はだれに現れたか。 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。 しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。 それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」

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仰る意味は分かります。また皆さんの御意見も。もう何十年と繰り返してきた議論なので。ただ皆さんの欠落した観点は、ユダヤ教徒の言い分を直接聞いた様子がないことです。 メシアニック・ジューと言っても色々なタイプがあるので一概に言えませんが、基本的にユダヤ教徒は「彼らはユダヤ教徒からクリスチャンになっただけだ」と言います。 基本ユダヤ教徒はイエスをメシヤと認めない。だから新約聖書は読む必要はないと言って読みません。 もし彼らが新約聖書を読んだらイエスをどう評価するのか? 次に実質的教祖であるパウロの神学をどう評価するのか? 両宗教の連続性を認めることが出来るのか否か? そこに注目しております。

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パウロの言葉が聖書全体と調和してるかは、聖書が述べてるのでは? しかも、彼と弟子達との、争いはなかった イエスはイスラエルの王になろうとしたのではなく、未来の地球の王。旧約聖書から約束されてた。

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> 彼と弟子達との、争いはなかった 新約聖書をまともに読まずにそう言われるなら、それ以上言うことはありません。