織田信長について質問いたします。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

お返事どうもありがとうございます。

お礼日時:2021/12/6 6:29

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色々な説がありますが怨恨説は秀吉が広めたものでそうでは無い様です。 スペインに信長の最後の言葉が残っていて我は我自ら死を招き入れたなと言ったそうです、これは信長供回り黒人の弥助が南蛮寺へ送られた際にイエスズ会が聞き取り商人がまとめた物です。 信長は日本を平定した後明を侵略する計画でした、光秀はこの計画を信長ではなく九州の商人から聞かされて驚愕します。 泰平の世の中を夢見て信長についたのに知らない土地で戦わされ捨て駒にされる家臣たちを憂いで辞めさせようとします。 そんなおり信長から呼ばれて家康暗殺の計画の話を聞きます、安土城に呼んで謀反を起こそうとした家康を誅殺すると言う計画です。 その時に明出兵をお辞め下さいと進言しますが2度足蹴にされて明出兵を辞めないなら信長を殺すしか無いと決心します、信長に警戒厳しい安土城に少数の供回りを連れた家康が謀反を起こすのは不自然で大義が無い結果明出兵も失敗に終わってしまうので違う方法をお取り下さいと進言します。 信長はそれなら本能寺でお茶会を開いて呼べば良かろうと言い、光秀は軍を動かせば警戒されますと答え信長は秀吉の毛利攻めの援軍と称していけば家臣の全てが秀吉が援軍を欲しがっているのを知っているから問題あるまいと答えます。 用意周到に信忠を家康の案内役として家康を安心させる算段を取っています。 光秀は信長が家康の領地に視察に行った際家臣の者を介して家康に伝えます。 安土城での接待の後毛利攻めに行くと挨拶に行った折信長暗殺と同時にそちらで信忠を暗殺して欲しいとお願いします。 信忠は殺気だった家康に何かを感じ途中で案内役を放棄して信長の元へ向かいますが信長は家康暗殺の計画が露見するのを警戒して信忠には会いません、仕方なく近くの寺に泊まります。 信長は謀反ですと聞いた直後信忠かと聞き光秀謀反を全く考えていませんでした、光秀謀反と聞き我は我自ら死を招き入れたなと言ったそうです。 弥助はこの日他の男を殺す筈だったとも言っています。 家康の伊賀越えは200名の伊賀者の警備の中行われ穴山梅雪は家康の計画を知った為農民ではなく家康家中の伊賀者に殺された様です。 細川氏がこの信長暗殺に深く関わっていたものの自身の家の存続を案じて光秀は老齢67歳で亡くなった後当主は幼少でこの先光秀についていっても滅びてしまうかもしれないと秀吉に事前に伝えてしまいます。 秀吉は信長に伝えず毛利との停戦交渉を事前に進めて中国大返しも事前に準備して御伽衆に書かせた記述よりも2日早く中国大返しを行なっています、でなければ現代の検証でも絶対に不可能です。 光秀は桶狭間宜しく細い道で疲れ切った秀吉軍を迎え撃ち必勝の作戦を建てますが高山右近の裏切りで負けてしまいます、キリシタン大名の高山右近を味方につける為念のためイエスズ会にお願いしたのが間違いで書状の下に日本人にはわからない様に光秀に味方するなと書かれていました。 なぜかと言えば明への布教が上手く行っておらず信長の明侵攻を強力する約束をしていてその布教を妨げるゼウスをも恐れぬ悪魔だと認識した為です。 高山右近軍1名死傷に対して明智軍は武将を含め200名が死傷し大混乱に陥ったと書かれていて不意打ちを食らった様です。 明智軍にいた足軽の記述に最初京へ向かうと聞き家康を倒すと思っていてまさか上様だとは思わなかったと書かれています。 これも説に過ぎないですが残っている文章から細かい事は違っていても有力かと思います。

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明智軍が出撃した丹波から 本能寺がある京都まで行く間は 山城という領国ありました。 当時、山城を一律支配した大名 は存在し無かったが多数の領主ら によって連立統治されていたので 彼ら、が明智軍の行軍を阻止 しなかった、ということは 謀反の共犯容疑は、あるかもしれ ない。また明智は織田信長、織田信忠 の親子を討った後は朝廷に巨額献金 していました。疑われたく無ければ 、そんな賄賂は受け取らなければ 良いのに、もらったほうも疑われても 仕方ない。当世は疑って叩けば、 いくらでもホコリが出たかもしれない 情勢だったが明智を討った羽柴は 謀反の共犯を徹底的に追及するより 乱世鎮静を優先したので本能寺の変を 真相究明は深掘りされ無かったようです。

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日本史の謎の一つですが、日頃から信長の考え方や行動に不満を覚えていた光秀の目と鼻の先に、ほとんど護衛もない裸同然の信長親子がいたという奇跡が、光秀の自制心を一挙に崩してしまったという可能性が最も大きいと思います。 根拠は、光秀は基本的に中性的な秩序観を持っており、だから室町体制の歴とした守護大名であった朝倉氏の下に居たり、足利幕府に近しかったりしたのでしょう。信長の織田家もただの戦国大名ではなく、斯波家などと並ぶ守護大名であり、弾正忠の家柄である。乞食坊主上がり、主家を乗っとった道三などとは全く違う。 しかし、信玄が三方ヶ原で織田徳川勢を破ると、義昭も幕府は信玄の方を選んでしまったこともあり、幕府と織田は敵対関係になる。また、かねて浅井・朝倉を滅ぼした信長でもあり、光秀の板挟みは極限に達していたでしょう。 人の好悪の感情は、もともとの心性の反りがあるところに、それが人間関係の進展により徐々に成長し、ちょうとしたきっけけで爆発することがある。旧暦の天正10年6月1日夜の段階で、信長親子が至近距離の京に裸同然で宿しているという、奇跡に近い状況にあると知った光秀の心は、もはや抑えきれない状態に達したということはあり得る。 ・・・ことは、あれほど緻密な頭脳を持っていた光秀の無計画な行動を見れば想像ができると思います。なお、光秀が野武士に襲われて死亡したという話は全く根拠がない。光秀がどこかに隠れて生きていた可能性は高い。それが天海だとは言いませんが。千葉県には光秀の長男と言われる人物の墓があり、土岐重五郎と彫られている。しかし長男なのに重五郎とはおかしい。五を重ねれば十になるので、光秀の通称である十兵衛を隠した名前ではないかとも思う。また鹿児島にも明智光秀の墓というものが現存する。尤も鹿児島には豊臣秀頼や淀君の墓もあるから、墓というより追憶碑というべきか。

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本能寺の変を暗殺とは言わないですが、、、 本能寺の変を実行したのは明智光秀。 黒幕がいたかどうかはいまだ不明。