昔大阪に阪神、南海、近鉄、阪急の鉄道会社四球団がひしめいていた頃、ファンの棲み分けは電車路線の沿線で棲み分けていたのですか?
昔大阪に阪神、南海、近鉄、阪急の鉄道会社四球団がひしめいていた頃、ファンの棲み分けは電車路線の沿線で棲み分けていたのですか? 始発の難波辺りは阪急以外の3つが互いに勢力を競い合う激戦区だったのか、東京の巨人とヤクルトのようにほとんどが阪神ファンで他の三球団はファンも少なく結局大阪から消えてしまったのですか?
ロッテと日ハムの前身の東京オリオンズや東映フライヤーズも東京に拠点がありましたが東京球場のあった下町にはけっこうオリオンズファンはいたのですか?東映のホームは日ハムになってからも後楽園でしたがファンの数はヤクルト以下の最も目立たない存在だったのですか?
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>日ハムになってからも後楽園でしたがファンの数は >ヤクルト以下の最も目立たない存在だったのですか? 御意。 日本のプロ野球が2リーグ制になったのは昭和24年からですが、偶然なのか関係あるのかは知りませんが、終戦後の日本で特急列車の運転が復活した年です。 聞くところによるとプロ野球の発展に尽力した正力 松太郎氏がチーム増設のため私鉄を説得したとされ、その狙いは電車による観客輸送に期待すると同時に、沿線住民にファンになってもらう事だったようです。 そして関西では意外にも「昔は兵庫県の甲子園を本拠地とした大阪タイガース(→阪神)よりも南海ホークスの方が人気があった」とは、関西ではよく聞く話です。 やはり大阪の繁華街にほど近い大阪球場の方が集客性があったようなのです。 ところがやはり伝統の一戦、つまり阪神・巨人戦が戦後のプロ野球人気を独占した、つまり正力氏ゆかりの巨人がいるセ・リーグに人気が集中してしまった時期が長く、阪急、南海、近鉄に西鉄、それ以外ではロッテと日ハムという球団しか無ければ如何に首都圏・近畿圏とは云え地元分裂の影響は大きく、パ・リーグはまるでローカル球団の様相でした。 https://www.youtube.com/watch?v=BxBCs2bQwQ4 なお「近鉄電車で早よ帰れ」は、かつて近鉄がCMソングで、子供がパパに向かって「早く帰って近鉄で」というフレーズがあったからと思われますw 一方でセ・リーグは巨人対アンチ巨人の様相もありましたから、首都圏在住のアンチ巨人の巣窟たるスワローズとホエールズ、そしてあとは関西を始め名古屋と広島で地元愛とアンチ巨人が融合してセ・リーグ人気が強まったわけで、一方でパ・リーグは集客が弱くて球団経営も厳しかったのでした。 特に日ハムはパ・リーグでしたからアンチ巨人系にとっても用はなく、ある時期は最もマイナーでした。 私の高校時代の担任教師が日ハムファンでしたが、まさにヘソ曲がりを絵に描いたような人物でしたw なお鉄道人としてプロ野球を見ると、戦後まもなくでも特急列車が運転されていた東海道本線と山陽本線だけで。この沿線以外では、辛うじて門司からそう離れていない平和台球場を除いては、各地でのアウェー試合の開催が困難だったのではと考えます。 そして西鉄はやはり経営が厳しかったようで、ライオンズはクラウンライターを経て遂に西武・所沢、つまり地方人にとっては「東京」に取られてしまって、当時は福岡県民の球団枯渇感には気の毒なものがありました。 一方近畿では1985年の阪神の快進撃などを機に河内・泉州でも阪神ファンが増殖した感があって、道頓堀川ダイブなの”木丙”のワノレさも大阪独特のものがありますw そこに目をつけたのがダイエーの中内功氏で、なんとホークスを福岡に持っていって今のパ・リーグ人気のきっかけを作った功績は大きなものがあります。 しかしそこはそこで、ホークスが来てからも福岡にはライオンズファンが少なからず居たし、また大阪にも根強いホークスファンは居ました。 しかしそこから時を経て、今や札幌から福岡まで政令市に本拠地を置くプロ球団が増え、地元愛と共に全国にパ・リーグ人気が高まったことは喜ぶべきことですが、全国各地で試合ができるのも新幹線や航空網が発展したればこそ、だと思うところであり、特に阪神大震災の後のブルーウェーブの優勝、東日本大震災後の楽天の優勝などの感動も、よく記憶に残るところです。
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