いま伊豆にいる人間たちの中で、頼朝だけが官位を持っている貴族だ、ってことです。その貴族の位を表す呼称が「佐殿(すけどの)」です。
関東武士たちは、伊東だ大庭だといった、このドラマで偉そうにしているやつでさえ、誰も朝廷から官位をもらっていません。頼朝ひとりが別の人種なんです。
頼朝は、流される前は、朝廷の女官だった母親・由良御前の七光りで、後白河上皇の姉・上西門院に蔵人として仕えていて、子供なのに右近将監の官位をもってる、レッキとした貴族だったんです。
独身の上皇の姉から実の子のように可愛がられていた少年貴族、いわば上級国民だから、殺されずに済んだ。上皇サイドから猛烈な助命運動のプレッシャーがかかって、清盛も殺すに殺せなかったんです。
頼朝は、関東の田舎に来たから「腐っても貴族」なんではなく、京都にいたころからピカピカのエリートだったんです。関東武士たちとは、人間の格が段違いに違う、別の人種なんです。
熱田大宮司(といっても神主ではなく貴族です)の娘・由良御前は、院に仕える高級女官だったひと(義朝にしてみりゃトロフィーワイフ)なので、上皇や女院といった王家の皆様とはお仲間なんです。源平とは関係ない「上流」人脈てのがあるんですよ。
つまり、頼朝は「子供だから赦された」んじゃないんです。現代人からみれば子供のトシでも、この時代なら、とっくに元服してるし、世の中の仕組みなんかもう充分に分かっています。
自分の父親には妻や愛人が何人もいる、顔もよく知らない兄弟もいっぱいいる、だけど自分の母親だけが貴族の娘で、おかげで自分は三男だけど嫡男なんだ。兄弟のなかで自分だけが「上級国民」なんだ。だから(関東武士の娘が産んだ)兄二人は殺されて、(貴族の娘が産んだ)自分は助かったんだ。
てことを、頼朝本人も知ってるし、関東武士たちも分かってます。
頼朝は、 平治の乱のおり、義朝・信頼が天皇・上皇を監禁してドサクサ紛れに作った臨時政権において、頼朝は「右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)」に任命されています。
結局負けたので官位はすぐに没収されて、流罪になりました。しかし、彼はその後もずっと関東武士たちから「佐殿(スケドノ)」と呼ばれてます。つまり「前右兵衛佐」という肩書は、流罪になろうとなんだろうと生きてるんです。これが日本の不思議なところ。「位と膏薬は、一度ついたら剥がれない」のです。
そして、その「貼り付いた古膏薬」であっても、田舎ではそれなりの権威(利用価値)がある。つまり、日本では、左遷されようが流罪になろうが、復活の目はゼロにはならない、ってことなんです。
実際、頼朝は復活します。
関東武士に担がれて「鎌倉殿」となり、平家を滅ぼしたあと、後白河法皇から「右近衛大将」に任ぜられますが、たった数日後にサッサと辞任してしまいます。京都で「天皇の近くで衛る」仕事をする気などサラサラないからです。
といいつつ、このあと頼朝はチャッカリ、「前大将」の資格で鎌倉に「政所」(まんどころ、大臣、大将など高級貴族の家政機関)を設置し、それがのちに「鎌倉幕府」と呼ばれることになる組織の、おおもとになるのです。
官職なんて権威だけなんだから、辞めても一緒、というのは、平清盛が太政大臣を百日で辞めてしまったあとも「平相国さま」と死ぬまで呼ばれたのと同じです。