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鎌倉殿の13人 すけどの とは源頼朝ですよね、 なぜそう呼ばれているのですか? このストーリー、いきなり 途中から始まっているような感じで 日本史に疎い者には解りにくいのですが、

日本史 | ドラマ3,752閲覧

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回答(12件)

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>すけどの とは源頼朝ですよね、 なぜそう呼ばれているのですか? 「佐(すけ)」という役職に就いていたからです。当時の関東地方(板東)では、そういうエリートは珍しかったのです。 >このストーリー、いきなり 途中から始まっているような感じで 日本史に疎い者には解りにくいのですが、 歴史年表でいうと どの戦、事変の頃なのですか? 平治の乱から十年あまり後から始まっています。

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平治元年(1159)の平治の乱に際し、頼朝が右兵衛権佐という官位に就いたことに由来 右兵衛 「兵衛府」宮門の警護や行幸・行啓の供奉などを担当する役所 「佐」は、階級 次官 「権」は、仮・副・定員外 頼朝は義朝の三男ですが母の身分が高く嫡子です。早くから高い官位について貴族の仲間入りしてます。伊豆に流されてからも、この官位で箔が付いている。清盛が「平相国」と呼ばれるのと同じ。 身分の高い人を本名で呼んだらクビチョンパです。過去に行ったときにはご注意ください。

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いま伊豆にいる人間たちの中で、頼朝だけが官位を持っている貴族だ、ってことです。その貴族の位を表す呼称が「佐殿(すけどの)」です。 関東武士たちは、伊東だ大庭だといった、このドラマで偉そうにしているやつでさえ、誰も朝廷から官位をもらっていません。頼朝ひとりが別の人種なんです。 頼朝は、流される前は、朝廷の女官だった母親・由良御前の七光りで、後白河上皇の姉・上西門院に蔵人として仕えていて、子供なのに右近将監の官位をもってる、レッキとした貴族だったんです。 独身の上皇の姉から実の子のように可愛がられていた少年貴族、いわば上級国民だから、殺されずに済んだ。上皇サイドから猛烈な助命運動のプレッシャーがかかって、清盛も殺すに殺せなかったんです。 頼朝は、関東の田舎に来たから「腐っても貴族」なんではなく、京都にいたころからピカピカのエリートだったんです。関東武士たちとは、人間の格が段違いに違う、別の人種なんです。 熱田大宮司(といっても神主ではなく貴族です)の娘・由良御前は、院に仕える高級女官だったひと(義朝にしてみりゃトロフィーワイフ)なので、上皇や女院といった王家の皆様とはお仲間なんです。源平とは関係ない「上流」人脈てのがあるんですよ。 つまり、頼朝は「子供だから赦された」んじゃないんです。現代人からみれば子供のトシでも、この時代なら、とっくに元服してるし、世の中の仕組みなんかもう充分に分かっています。 自分の父親には妻や愛人が何人もいる、顔もよく知らない兄弟もいっぱいいる、だけど自分の母親だけが貴族の娘で、おかげで自分は三男だけど嫡男なんだ。兄弟のなかで自分だけが「上級国民」なんだ。だから(関東武士の娘が産んだ)兄二人は殺されて、(貴族の娘が産んだ)自分は助かったんだ。 てことを、頼朝本人も知ってるし、関東武士たちも分かってます。 頼朝は、 平治の乱のおり、義朝・信頼が天皇・上皇を監禁してドサクサ紛れに作った臨時政権において、頼朝は「右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)」に任命されています。 結局負けたので官位はすぐに没収されて、流罪になりました。しかし、彼はその後もずっと関東武士たちから「佐殿(スケドノ)」と呼ばれてます。つまり「前右兵衛佐」という肩書は、流罪になろうとなんだろうと生きてるんです。これが日本の不思議なところ。「位と膏薬は、一度ついたら剥がれない」のです。 そして、その「貼り付いた古膏薬」であっても、田舎ではそれなりの権威(利用価値)がある。つまり、日本では、左遷されようが流罪になろうが、復活の目はゼロにはならない、ってことなんです。 実際、頼朝は復活します。 関東武士に担がれて「鎌倉殿」となり、平家を滅ぼしたあと、後白河法皇から「右近衛大将」に任ぜられますが、たった数日後にサッサと辞任してしまいます。京都で「天皇の近くで衛る」仕事をする気などサラサラないからです。 といいつつ、このあと頼朝はチャッカリ、「前大将」の資格で鎌倉に「政所」(まんどころ、大臣、大将など高級貴族の家政機関)を設置し、それがのちに「鎌倉幕府」と呼ばれることになる組織の、おおもとになるのです。 官職なんて権威だけなんだから、辞めても一緒、というのは、平清盛が太政大臣を百日で辞めてしまったあとも「平相国さま」と死ぬまで呼ばれたのと同じです。

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かつて、頼朝は右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)という役職に就いていました。 これはすぐにはく奪されてしまうのですが(平治の乱で源氏が負けたため)、その名残で、上記を略した「佐殿(すけどの)」と呼ばれています。 あだ名みたいなものですね。 話の舞台となる年代についてですが、頼朝と政子の子供である大姫が1179年生まれなので、その数年前だと思われます(二人の婚姻の年は不明です)。 平治の乱で父・義朝とともに敗れ、伊豆へ流されたのが1160年。 その後は戦や事変というより、平清盛が武士の出身でありながら朝廷の中でどんどん上り詰め、武士である平家の地位が全体的に上昇するという、前代未聞の事態が起きていたころでした。 歴史年表で行くと、「保元・平治の乱」と「治承・寿永の乱」の間の時期になります。

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兵衛府(省)とは今の陸軍省。 大佐(スケ)が退役軍人になっても大佐と呼ばれる様なもの。 源頼朝は平治の乱の際に右兵衛権佐に任じられ僅か十五日で解官となる。 建久元年(1190年)に権大納言に任じられるまでの30年間「前右兵衛権佐」であった。 兵衛(役職)・・・以下は大尉クラス。 黒田官兵衛孝高 竹中半兵衛重治 明智十兵衛光秀

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