倪维思携妻五年后再次来华,1871年从登州移居烟台,此后在那里生活22年之久,直到去世。
倪维思携妻五年后再次来华,1871年从登州移居烟台,此后在那里生活22年之久,直到去世。 除建立教会和办学外,倪维思经常深入山东内地传福音,分发福音书册,足迹遍及青州府(今益都)、潍县(今潍坊市)和沂州府(今临沂)。1877年,山东因连年干旱造成空前大饥荒,倪维思决意放下一切事情,同郭显德牧师(Rev. Hunter Corbett)等人,专门从事赈灾活动,同时把福音传给当地民众。他以临朐的高崖为中心,遍访受灾之地,了解灾情,统计受灾人数,制定放赈办法,发放赈款。为了向外界募款,他经常把灾情和赈灾情况写信告诉他在烟台的妻子,再由他转发国外。从其信件片段中,可见当时灾情之严重: “一八七七年三月:此处灾情极为严重,几乎人口的一半被迫分散到邻近几个省份逃荒要饭。过去六个月平均百分之十五的人口已经饿死了,有的地方死亡率比这个还要高。……老百姓的粮食已经吃尽了,连小米糠、地瓜秧、豆秸也都吃尽了。现在在靠树皮、草根等充饥。我们所遇见的人,十个中就有九个都是面黄肌瘦,眼睛凹下去,有的骨瘦如柴,仅仅有个顾家。他们不敢求吃饱,但求能活下去。许多人以售妻卖女作为最后一着。六七岁的女孩卖一二元钱,十至十二岁的卖三至五元钱。” この文章を日本語で翻訳して欲しいです、宜しくお願いします。
ベストアンサー
ネヴィウスは妻を連れて五年後に再び中国へ来て、1871年に登州から煙台に転居し、この後そこで22年もの長きの生活をして、亡くなった。 教会を建て学校を運営したほかに、ネヴィウスは常々山東の内地に入り込みキリストの教えを伝え、キリスト教の書冊を配布し、足跡は広く青州府(今の益都)、濰県(今の濰坊市)と沂州府(今の臨沂)に及んだ。。 1877年、山東は聯年の干ばつが大飢饉を引き起こし、ネヴィウスは一切の事情を投げ捨て、コルベット牧師(Rev. Hunter Corbett)らと、被災救済活動に専門的に従事し、同時にキリストの教えを当地の民衆に伝授した。彼は臨朐の高崖を中心として、被災地をあまねく訪問し、災害状況を理解し、被災者数を統計し、救済金を出す方法を決め、救済金を放出した。海外に募金するため、彼は常に災害状況と」救済の状況を把握し、煙台の妻に手紙を書いて知らせ、国外に転送した。その手紙の一段落には、当時の災害状況の深刻さを見ることができる:「1877年3月:この災害は深刻さを極め、人口の半分が逼迫して近隣の数省に分散して飢饉を避け食事を求めた。過去6か月の平均で100分の15がすでに餓死し、ある地方の死亡率はこれよりも高い。……民衆の糧食はすでに食べつくされ、米ぬか、サツマイモの蔓、豆柄まで食べ尽くしている。今では木の皮、草の根などで飢えをしのいでいる。私たちがあった人の、10人中9人は顔が黄ばみ肌が痩せ、目はくぼんで、骨まで柴のように痩せ、家族の心配ばかりをしていた。彼らはあえて満腹を望まず、生き繋ぐことだけを求めた。多くの人が妻女を売ることを窮余の一策とした。6、7歳の女児は12元で売れ、10~12歳は3~5元で売れた。」
質問者からのお礼コメント
助かりました、誠に有難うございます。 谢谢您
お礼日時:1/20 17:17